2022年5月15日

(説教要旨)
                        「神の民 」
 
                 〈ヨハネ福音書15章 111節 〉
 「わたしはまことのぶどうの木である」。この「わたしは~である」という句(エゴー・エイミ句といいます。英語で言うとam” )は、ヨハネ福音書だけで、イエスの言葉として26回登場します。
 今朝の箇所は、述語(補語)を伴っているヨハネ福音書中にある7つの句のひとつです。
その7つのエゴー・エイミ句とは、「わたしは命のパンである」〈63551〉、「世の光」〈81295〉、「羊の門」〈1079〉、「よい羊飼い」〈101114〉、「よみがえりであり命」〈1125〉、「道であり真理であり命」〈146〉、「真のぶどうの木」(今朝の箇所)の7つです。
このリストをご覧になって不思議に思いませんか? イエスは何者であるかを伝えたいヨハネ福音書において、わたしたちがイエスについて告白する第一のものである。「主」と「キリスト(救い主、メシア)」がありません。イエスの言葉として「わたしは主でありキリストである」という言葉がないのです。
ブラウンという人の「ヨハネ福音書」の註解書には、これについて下記のように説明しています。
 他の福音書において「エゴー・エイミ」という言葉が登場する箇所が4か所あります。
ひとつは、イエスが湖の上を歩く奇跡の箇所です。船上の弟子たちが幽霊だと恐れていると「わたしだ。おそれるな」とイエスが言われます〈マルコ650〉。ふたつ目は、エマオに向かう弟子たちに復活のイエスが現れ「あなたがたに平安あれ」と言われます。ここは、実は「エゴー・エイミ。恐れるな」という言葉です〈ルカ2436〉。
3つめは、イエスが「わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って多くの人を惑わすだろう」と言われます。「わたしがそれだ」の箇所はエゴー・エイミという言葉です〈マルコ136〉。
最後は、イエスが最高法院に囚われて尋問を受け「皆の者が、『では、お前は神の子か』と言うと、イエスは言われた『わたしがそうだとはあなたがたが言っている』」と答えます。「わたしがそうだ」の箇所がエゴー・エイミです〈ルカ2270〉。
3
番目と4番目に顕著ですが、ブラウンという人は註解書において「エゴー・エイミという句は、それ自体で救い主(メシア)であることを意味している」と書いています。
 葡萄は、B.C. 15世紀から(エジプトの影響を受けて)パレスチナで栽培され、旧約聖書には、神の民、イスラエルを譬えるものとして何度も記述されていました。今朝の箇所において、ぶどうの木という言葉の前にわざわざ「まことの」という言葉があるのは、この木は他の木と違っていることを示しています。どこが違うのか。この木は、「救い主イエス」と同義です。そしてその木は神の愛に充たされています。そこが違うのです。
 〈ヤコブ書〉に「ぶどうの木からいちじくの実が成るか」という言葉があります〈313〉。木の枝であるわたしたちは、救い主イエスの実を結ぶのです。「実を結ぶ」とは「行う」という意味です。わたしたちは、まことのぶどうの木の枝に相応しく歩み続けたいものです。

2022年5月8日

(説教要旨)
               「真理はあなたがたに自由を与える  
 
                 〈ヨハネ福音書83138節 〉 
 真理はあなたがたに自由を与える。この言葉は皆によく知られていることばです。日本の国立国会図書館の受付の梁にもギリシャ語とその右には日本語訳で「真理がわれらを自由にする」と刻まれています。(「われら」との訳は誤訳です。)
 真理は神とイエスの属性です。〈ヨハネ146〉人間の属性ではありません。誰も「わたしは、わたしの行いは、わたしの言葉は真理である」とは言えず、真理は人間の遥かかなたにあるということです。
 イエスは、わたしたちに真理に向かう道を提供してくれています。つまりイエスに従うことを提案してくれています。聖霊の働きもわたしたちを真理に向かわせます。しかし、わたしたちはその真理に向かう者であって、あるいは、その真理に従おうとするものであって、真理そのものではありません。
 「真理はあなたがたを自由にする」。つまり、イエスは「今、あなたがたは不自由だ」と言うのです。
それを聞いた人たちは「誰かの奴隷になったことはない」と反論します。〈833〉。
イエスはそれに応えて「あなたがたは罪の奴隷です」と言います。
 パウロは律法が絶対的なものではなく相対的なものであることをよく理解していました。
パウロは「律法があるから、わたしたちは罪びとになるのだ」と言っていますが、わたしたちは、律法という言葉を法律や常識という言葉に置き換えて理解してもよいと思います。
 イエスは「もし子があなたがたを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」〈836〉と言われます。つまり、神の子であるイエスが、「あなたたちは罪びとではない」と言えば、あなたたちは罪(律法)から自由になる。と言われるのです。
 わたしたちは真理そのものではなく、真理を手中にしていませんが、しかし、真理に向かうこと、あるいは、その真理に従おうとすることは必要であると思います。
 ロシア国内でウクライナへの軍事進攻に反対することが困難になる中、ロシア国外に在る学者、作家、芸術家たちが、反戦の動きをつくるために「本当のロシア」というウェブサイトを立ち上げました。代表者であるボリス・アクーニンは日本語でわたしたちにこう呼びかけています。
「プーチンのロシアと本当のロシアは違います。本当のロシアはドストエフスキー、トルストイ、チェーホフの国です。プーチンのロシアはなくなり、本当のロシアが残るでしょう」。 わたしたちもまた、真理を大切にする生き方を選びとりたいものです。

2022年5月1日

(説教要旨)

               「言葉と戦車」〈ホセア書1章 〉
「教会は、人々の心の問題に集中して、政治的発言はしないほうが良い」という意見を時々聞きます。しかし、わたしは「いったい政治的発言をしなかった預言者など居たのだろうか」と思います。
 旧約聖書に登場する預言者たちは常に「言葉と戦車」の問題に直面していました。北からのアッシリア、バビロニア、南からのエジプト、西からのローマといった大帝国からの侵略にどう立ち向かうか。人々は常にこの問題に晒されて、戦車を、武力を頼りにしてきました。
しかし、預言者たちの中で「武力で抵抗するな」と言った預言者がいます。イザヤとホセアです。
ホセアは、家庭問題に終始する預言者のイメージがありますが、ホセアと妻ゴメルとの関係は、神とイスラエルの関係に譬えられているのです。北のアッシリア、南のエジプトの脅威に晒されていたB.C. 8世紀の北王国イスラエルで約30年間活躍した預言者です。
 現在、日本では「だから、ウクライナのようなことにならぬよう、自衛隊の戦力を増強しなければならない」「憲法第9条が夢物語であることがウクライナで証明されたではないか」などという論が強まっています。
このような論に出会う度に、わたしは加藤周一の『言葉と戦車』という本を思い出します。
 1968年の8月、言論統制の解除など「プラハの春」を謳歌していたチェコスロバキアに、ソ連軍などワルシャワ条約機構の1500台の戦車が国境を超えてプラハに侵攻しました。この時、東欧で一番強力な陸軍を保持していたチェコスロバキア陸軍は動きませんでした。
代わりに市民が抵抗します。「1968年の夏、小雨に濡れたプラハの街頭に相対していたのは、圧倒的で無力な戦車と、無力で圧倒的な言葉であった」(加藤周一『言葉と戦車』)
 ソ連軍の戦車が到達した地域の発電所は、電気の供給が止まり、水道局は水道を止め、プラハ市内の住居表示はすべて取り去られ、道路方向表示も取り去られて「こちらがモスクワです」の表示に替えられ、無数の秘密印刷所によって市民新聞が発行され、無数の秘密放送局から占領軍の位置情報などが放送され、そして、なにより、戦車の前に座り込んだ無数のプラハの青年たちのソ連戦車兵との対話がはじまります。
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万の大軍がチェコスロバキアを占領しましたが、チェコスロバキア政府の発表においても死者は50人に満たず、負傷者は数百人でした。「およそ東京一か月の交通事故に相当する死傷者であった」(加藤周一)
今朝のわたしの話は、ウクライナのことは念頭にありません。1968年のプラハ事件と現在のウクライナ情勢と比較する気もありません。
今朝のわたしの話は、「日本が武力で侵攻された場合に、わたしたちはどうするのか」と言ったウクライナ情勢を利用した自衛隊の増強論に対するものです。
 結局、チェコスロバキアは「共産党の指導的役割の擁護」「検閲の復活」「非共産党系政治組織の解散」「改革派主要メンバーの更迭」を柱とする「モスクワ議定書」の締結を余儀なくされ、ソ連軍はその後20年間チェコスロバキアに居座り続けます。戦後77年間日本に米軍が居座り続けているのと同じですね。
 神は、ホセアに「わたしはイスラエルの弓を折る」〈15〉と言われ「ユダの家には憐みをかけ、彼らの神なる主として、わたしは彼らを救う。弓、剣、戦い。馬、騎兵によって救うのではない」〈17〉と言われます。つまり、神は、弓を折れ。武力によって抵抗するな。わたしがあなたがたを救う。と言われます。 「現代の国際政治において武力を行使するな」などという論が通用するか、と言われるかもしれません。主の救いの業は実現するのでしょうか。わたしは実現すると思います。

 

 文部省が194748年の中学生に『あたらしい憲法の話』で戦力の放棄を教えた箇所には、こう書かれてあります。
「これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戦力の放棄といいます。しかしみなさんはけっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことをほかの国よりさきに行ったのです。正しいことぐらい強いものはありません」
 文部省はこの本を捨ててしまいましたが、わたしはこの本を何度でも子どもたちに読んで聞かせようと思います。
これから国際社会のありようを探らざるを得なくなる子どもたちに「正しい道はこれだ。軍備不要の世界を創ろう。日本はその先駆けとなろう」と伝えたいと思います。

2022年4月24日

(説教要旨)
   
                   「 目に見える姿で 」
 
                  〈ヨハネ福音書201931節 〉 
 弟子たちが、「主イエスはよみがえられた」と告白しはじめます。それは弟子たちの立ち直りを示すものでもありました。その立ち直り(アナスタシス)は、神の救いの業にふたたび一生をかけると決意したことに始まったと思う、と先週お話しました。
 弟子たちが「わたしたちは立ち直った」とは言わず、「イエスはよみがえった」と言い始めたのはなぜか。「わたしたちの立ち直りには、そこに神の救いの業が働いていた」と言いたかったからです。わたしたちが会堂建築をして「わたしたちが建てた」とは言わないで「神が建てられた」と言うのと同じだと思います。
 今朝の〈ヨハネ福音書〉によれば、「イエスはよみがえった」はイエスの墓にいたマグダラのマリアから弟子たちに伝えられたことでした〈2018〉。次に、弟子たちが証言したのは「イエスはわたしたちのところに目に見える姿で来られた」でした。〈2019以下〉
 話はすべて「イエスの墓は空だった」から始まっています。「墓が空になったのは、誰かが持ち帰ったからだ」ということにしたい人たちはたくさんいたでしょう〈マタイ281115〉。たぶん、ヨハネ福音書が書かれる頃にもいたのでしょう。合理的に説明されているようで、しかし、弟子たちの生き方を止めることはできませんでした。
 弟子たちが告白する「イエスはよみがえられた」は、次のことも意味するでしょう。つまり、弟子たちによるイエスのガリラヤ宣教が再開されたということです。イエスの福音(イエスの言葉、行い、出来事)が、弟子たちによって引き継がれたということです。そして、それは今に至るまで引き継がれています。ここに京葉中部教会があるように。
 「キリスト教会が2000年間も継続したその原動力は何だったのか」と、しばしば思います。

その原動力とは、神の救いの業を信じる者の存在だと思います。
 「聖書という経典があったから」という説明もありますが、聖書を読んで神を信じる人が居なければ聖書はただの本です。キリスト教を継続する力にはなりません。
 キリスト教会を2000年間継続させた力は、聖書の言葉であり、そして、それを信じてキリスト者として生きた人たちの後ろ姿だったと思います。つまり、キリスト教を2000年間継続させた後、それを継続して行く力は、わたしたちにあるのです。
 「いや、そんな力はわたしにはありません」と言われるでしょうか。

では伺います。わたしたちの何を人々に見せるつもりでしょうか。
偉そうな社会的地位でしょうか。財産でしょうか。何かの優れた能力でしょうか。高潔な人格でしょうか。

 

わたしたちが皆に見せるべきは、わたしたちの陰府からの立ち直り、イエスの福音に喜んでいる姿であると思います。

2022年4月17日

(説教要旨)
                  「 復 活 」
 
             〈マルコ福音書16章111節 〉
 キリスト教会が大切にしている「使徒信条」という信仰告白文(クレドー)があります。それによれば、イエスは「乙女マリアより生まれ」、次に、ガリラヤでの宣教活動のことは省かれて、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、3日目に死人のうちよりよみがえり」と告白されています。
 「死人がよみがえることなどあるはずはない。キリスト教はなんて変なことを言う宗教なのだ」と思われるかもしれません。
 このこと、「イエスはよみがえった」は、イエスの死後、イエスの弟子たちがそう告白し始めたのです。
今朝はイエスの死後、弟子たちはどうしたのかに思いをめぐらしてみたいと思います。
イエスはローマ帝国への反逆罪で十字架につけられ死刑になります。マグダラのマリヤなど、女性たちだけが最後まで十字架の下に居てイエスに従いますが、弟子たちはおそろしくなって、身を隠します。
一番弟子のペトロは、「あなたはイエスの仲間だ」と言われて「そんな人知りません」と答えます。
わたしたちがこのことを聖書によんで分かっているのは、弟子たちが教会の集会でイエスが十字架につけられる日のことを証言したからだと思います。「わたしたちは、イエスが十字架につけられる日、まったく良いところがなかった」と。
 イエスの時代の埋葬方法は、遺体を火葬せずに洞窟のような墓に埋葬しました。
それでイエスの死の3日後に女性たちがイエスの遺体に没薬を塗りに墓に行きました。
しかし、イエスの墓は空でした。女性たちは恐ろしくなって墓を出て逃げ出しました・・・。
〈マルコ福音書〉の原文は、ここで終わっていたと考えられています。
つまり、マルコ福音書の記者は、「その後の話は、これを読んだあなたの人生です」と言いたかったのかもしれません。
 イエスの弟子たちはどうしたのか。いつ頃からかは分かりませんが、おそらくは、女性たちが最初にイエスはよみがえられたと言い始めたので、あのナザレ出身の大工の息子でエルサレムで死刑になったイエスは、主(キュリオス)であり救い主(キリスト)だと言い始めたのです。 
なぜ、弟子たちはこんなことを言えるようになったのでしょうか。わたしはこう思います。
 いったんは挫折した弟子たちが、もう一度神様を信じるようになったからだと思います。「私たちには出来ないが、神様なら死人さえよみがえらせることができる」と。もう一度神様の救いを信じることに一生をかける決意をしたのだと思います。
 〈ルカ15章〉にある、放蕩息子が家に戻ってきた時に、お父さん(このお父さんは、神様のことです)は、息子が帰ってきたので喜び、いちばん良い服を着せ、指輪をはめてやり、子牛をほふってお祝いをしようとします。すると放蕩息子のお兄さんが仕事から帰ってきて、面白くない。
なんで家を飛び出して放蕩に身を持ち崩したような弟に、帰ってくると宴会をしようというのか。そういいます。
するとお父さんは兄にこう言います。あなたの弟は「死んでいたのに生き返った」〈1532〉。
この放蕩息子の物語は、イエスの弟子たちは好きだったでしょうね。放蕩息子は「おれたちのことではないか」とこの物語を大切にしたのではないかと思います。
 「よみがえる」という意味のギリシャ語はアナスタシス。これは本来「立ち直る」という意味です。
ですから、「イエスはよみがえった」と言い始めた弟子たちが言いたかったことは「大丈夫、神様の救いの業があるのだから、神様がイエスにそうされたように、みなさんは立ち直ることができる」だったと思います。

2022年4月10日

(説教要旨)
                   「十字架」
              〈マルコ福音書152132節 〉
 十字架を見るたびに、わたしは「キリスト教は不思議な宗教だな」と思います。十字架は処刑道具でした。それを(おそらく4世紀以降から)教会のマーク(印)としているのです。決して、見てウキウキするような、楽しい気持ちになるようなマークではありません。
 使徒信条は、イエスの生涯を「処女マリヤより生れ」と告白しその後は、ガリラヤでの宣教の事実は省かれて、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と十字架の事実に集中します。端的に自分たちの信仰を言い現わす信条(クレド)においてイエスの十字架はその中心を成しているのです。
 使徒信条はイエスは何のために十字架につけられたのか明言していませんが、わたしたちは「われわれの罪のために」イエスは十字架につけられたのだと理解しています。
 イエスがローマ帝国の処刑方法であった十字架につけられた原因は、ローマ帝国への政治的反逆でしょう。イエスの死はローマ帝国のユダヤ支配に関係しています。 しかし、弟子たちはそこにイエスの意図を見出そうとし「何のために」と設問したのです。イエスはわたしたちに希望を与えるために、意図的に、十字架につけられたのだと弟子たちは理解したのです。
 繰り返しますが、わたしたちは信仰の中心に十字架を据えなければなりません。つまり、楽しくはない事柄に、見たくはない事柄に目を向けなければなりません。自分自身とこの世に目を向ければ、それは数え切れなくあるはずです。
 今年のレントとイースターは、ロシアがウクライナに侵攻する事態の中で迎えています。「プーチンはウクライナが仕掛けた戦争によく耐えている」と多くの人がウクライナ侵攻を支持するロシア国内で、ギリシャ正教会のイワン・ブルディンというロシア人神父は礼拝説教と教会のホームページでロシア軍のウクライナ侵攻を批判し、拘束されました。319日のBBCのインタビューに彼は「流血はいかなる理由があろうとも罪です。それを命令する行為も罪です。それを支持することも罪です。そして、沈黙していることも罪です」と応えています。正当な神父の行為であると思います。わたしはこの神父の行為にロシアの希望を見るのです。
 教会がそのマークとする十字架の意味は何か。わたしは、十字架は神の痛みを表しているものだと思います。わたしたちの、この世の罪に、神は痛みを覚えている。
 しかし、神はなんとかしてわたしたちに希望を与えようとされている。それが、十字架につけられたイエスの姿、神がわたしたちと共に居られる姿なのだと思います。

2022年4月3日

(説教要旨)

                      「受難の予告」
 
                 〈マルコ福音書82733節 〉
 イエスをキリスト(救い主)であると信じることは何を意味するのか。
これが今朝のテーマです。今朝は、イエスと弟子たちの代表ペトロが言い争う場面で話を終えます。
 今朝のテキストは、16章あるマルコ福音書のちょうど中間地点に在ります。イエスの生涯を記述しようとするマルコは、ここでイエスの生涯の大きな転換点を示そうとしているのです。ガリラヤでの宣教活動はここで終わり、そして、イエスの行動はエルサレムの十字架に向けられます。
 これまで、イエスは、弟子を招き、病気の人を癒し、湖の上を歩き、5千人に〈63044〉に、4千人に〈8110〉食べ物を与え、突風を鎮め、さまざまな奇跡を行い、さまざまな説教をします。ここまではイエスは弟子たちにとって偉大なる教師そして預言者らしい姿、そしてメシアらしい姿であったのだろうと思います。期待される教師・預言者像、そしてメシア像によく応えてくれる、成功しているイエス、すごいイエスなのでした。
 ところが、今朝の箇所に至ってイエスは「人々はわたしのことを何者だと言っているのか」と訊かれ、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と訊きます。この時、弟子たちは、人々は預言者の一人だと言っているが、(そうではありません)。わたしたちはあなたのことをメシア(キリスト・救い主)だと言います(信仰告白します)と答えます。
 みなさん、ここでわたしたちが念頭におかなければならないのは、マルコ福音書は、イエスの死後約30年後に、弟子たちが十字架につけられたイエスのことを「メシア(キリスト・救い主)であると告白し、教会をつくり、伝道を始めている時に書かれたものだということです。今朝の箇所には、イエスの死後の弟子たちの信仰が言い表されているのです。
 今朝の箇所の後半は、イエスと弟子を代表するペトロとの言い争いが記録されています。

 

イエスは、人の子(つまりイエスの自称)は、必ず多くの苦しみを受け、殺され、3日の後に復活すると言われます。すると、ペテロはイエスをわきに連れて行って、いさめ始めます。「あなたはキリストなのですから、苦しみを受け、殺されるなんて言ってはいけません」聖書にはありませんが、ペトロはこんなことを言ったのでしょう。。ここで始めて弟子たちとイエスとのメシア理解の違いが鮮明になります。
 実際、史的イエスが自分がメシアだと思っておられたのか、不明です。〈820W ヴレーデ〉
今朝の箇所は、マルコ福音書が書かれた時にはイエスをメシアであると告白している弟子たち自身が、イエスと行動を共にしていた時、メシアとは何かについて誤解していたことを言い現わしているのです。
 イエスは成功するメシアではなく、失敗するメシア、すごくないメシアだった。そこに、イエスの十字架に、わたしたち弟子たちは本物のメシアの姿を見た。マルコ福音書はこれを伝えたかったのです。

2022年3月27日

(説教要旨)

 

                          「 兄弟たちと同じように 」
                     
〈へブル人への手紙 21718節 〉
 パウロが書いたとされる13の手紙のうち、「確かにパウロが書いた」とされる手紙は実は7つだけなのですが、今朝の〈ヘブル人への手紙〉は、しばしば、パウロが書いたのではないかという説が登場するのです。(この手紙の最後や〈139〉を読むと著者はパウロかなとも思いますが、著者はパウロではないと思います)。
とにかく、〈へブル人への手紙〉の著者は、律法に精通し、ユダヤ人の習慣をよく知っていたことは確かです。
 今朝の箇所でイエスは大祭司に譬えられていますが、「(罪の)贖い」が日常的にどのようにされていたのかを知れば、なぜエスは大祭司に譬えられているのかがよく分かります。
贖いの行為とは、エルサレム神殿で神に生贄をささげる行為でした。レビ記を読むと1章から5章までは「焼き尽くす献げ物」「穀物の献げ物」「和解の献げ物」「贖罪の献げ物」「賠償の献げ物」。これらについて書かれてあります。6章からはその他、施行細則。さまざまなものが神に献げられていました。
献げ物は、すべて過ちや罪を犯した場合に、その人の罪が赦される為に神殿に行ってするべき行為とされていました。
それは儀式化され、繰り返されて、その儀式の主催者がエルサレム神殿の大祭司でした。
 この手紙によれば、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われ」〈415〉、「世の終わりにただ一度、ご自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために」〈926〉この世に「現れ」ました。〈へブル人への手紙〉の著者も、イエスの十字架を「民の罪を償うため」のものと理解しました。
17節〉の「兄弟たち」とは「わたしたち」という意味です。
わたしたちはこの世に在って、試練に遭い、苦しんでいます。〈18節〉では、〈17節〉で表現された「民の罪」という言葉が、「試練を受けている」という言葉に言い換えられています。この手紙で言う「罪」とは、〈レビ記〉に言う、いろいろな個人的過ちや律法違反のことではなく、「この世で試練を受けている」ということです。
実際、わたしたちは、狭い範囲(盆栽規模)では平安な毎日かも知れませんが、世界規模では決して平安な状態とは言えません。
 この手紙の〈724〉では「しかし、イエスは永遠に生きている」と書かれています。つまり、「一回きり」とは2000年前に一回きりという意味ではないのでしょう。やはり、青野太潮が言うように、今、イエスは「十字架につけられたまま」なのかもしれません。
イエスは苦しみ続けておられるのです。そのようにしてイエスは、わたしたちの試練を共に負ってくださっているのだと思います。

2022年3月20日

(説教要旨)
                 「 和解 」
        〈2 コリント信徒への手紙518~19節 〉
 
 パウロは、今朝の箇所で「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになった」と書いています。
1820節〉は、「和解」という言葉が5回使われています。(この訳語が登場する箇所は、福音書中パウロの手紙に今朝の箇所と〈ロマ書〉2回切りです)。この言葉は、先週お話した「贖う」と同じ意味の言葉です。
 「キリストを通して」の「通して(ギリシャ語ディア、英語through)」は、わたしたちが祈る最後に「キリストのみ名によって(通して)お祈りします」と言う時に使う用語です。この時、わたしたちはキリストによって神と和解したことを覚えているのです。
 和解とは、関係が修復されたことを指す言葉です。

今朝の箇所の場合、誰と誰の関係が離れたというのか。神と「わたしたち」〈18節〉・「この世」〈19節〉との関係です。
 誰が離れたというのか。わたしたちと世が神から離れた(ハマルテア、罪)とパウロは理解したのです。

 

 和解、そして「罪を贖う」と同じ意味の言葉は、「償いをする」と訳されて旧約聖書に何度も登場します。人々は、罪赦されるために、神殿で子羊や牛などをささげて「罪の贖い」をしたのでした。そして、その行為は儀式となって繰り返されていたのでした。先週は、贖いの行為をする主体が人々から神へ逆転した話しをしましたが、それは、主イエスにおいて起こったことがらでした。(「一度きり」の贖い〈へブル人への手紙〉)
パウロが言う和解も、神からの一方的な関係修復の行為だと言うのです。 

 パウロは〈1コリント153〉で「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだ」と書いています。しかし、「わたしたちの罪のために」は多くの解釈を生み、その多くの解釈を整合するために「贖罪論」という大きなテーマが生じることになります。
「わたしたちの罪のために」は、福音書がイエスの生涯を書き記す時に〈イザヤ書53章〉をモチーフにしたことは確かですが、「イエスはわたしたちの罪を贖うための子羊であった」という身代わり論は「自分の罪が赦されるために誰かを犠牲とするという論は容認できない」(青野太潮)などの感想を生むことになります。
 イエスは、ユダヤの独立を願いローマ帝国の政治犯で死刑となった青年たちの一人であったかも知れません。自分が「人々とこの世の贖いの子羊である」という自覚はなかったかも知れません。
 しかし、そのイエスの死を自分の生き方に照らして解釈しようとするイエスの弟子たちやパウロが居ました。今朝の箇所の最後にある「和解の言葉をわたしたちにゆだねられた」とは、「では、あなたがたはどう生きるのか」という問いであるとわたしは思います。

2022年3月13日

(説教要旨)

 

                    「 贖(あがな) い 」
 
             〈エフェソの信徒への手紙 1 章3~7節 〉
 パウロは、イエスと会ったことはありませんでした。しかし、キリスト者迫害の息を弾ませている真っ最中に、イエスに出会い、彼の人生を大きく転換して伝道者として生涯を送りました。「イエスに出会い」というのは、実際は彼が迫害していたキリスト者に出会ってイエスのことを知ったわけで、パウロが理解するイエスとは、十字架と復活の内容でした。そして、イエスの十字架のことを贖いという言葉を使って「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」と表現したのです。
 「贖う」という言葉は、この言葉が頻繁に用いられる旧約聖書においては、人々の解放を指す言葉でした。そして同時に神の救済の業を指す言葉でもありました。奴隷の身であったエジプトから脱出して解放された。この経緯において、聖書はイスラエル自身の力によってこれが達成されたのではなく、神によって達成されたのだ〈申命記781352418〉。バビロンの捕囚から解放されて故郷に戻ってきた。これも神によって達成された神の救済の業だ。そう理解したのです。ですから、今朝の箇所の〈17〉にある「罪を赦された」とは、伝統的に「奴隷状態であったこの身が神の救済の業によって解放された」という意味です。
 イエス・キリストの十字架と復活について、パウロはなぜ「贖い」という言葉を使うのか。
パウロの時代の人々が日常的に見ていた光景があります。それは、奴隷(戦争による捕虜となった奴隷、借金による奴隷などいろいろな種類の奴隷となった人々が居ました)を解放するために金銭を支払う場面です。
   
「贖う」とは、わたしたちのごく日常的な行為です。「買う」という意味ですから。パウロの時代は、金銭による売買の他に物々交換の場合も多かったでしょう。
 神は、その一人子イエスの血によって、奴隷の身であったわたしたちを買い取られたのです。そのようにしてわたしたちを解放されたのです。パウロは人々が容易に理解できる「贖い」という言葉を用いてイエスの十字架の意味を言い表したのです。
 パウロ自身にとって、奴隷状態であったとは、律法を忠実に守って「だからわたしは正しいのだ」と思い込んでいた様子のことです。「贖われた」とは、神様によって愛されていることを信じることによって律法の呪縛から、必死の自己義認から、解放されたという意味です。
 ただ神の一方的な御子の差し出しによって、わたしたちが贖われたことを、解放されたことを信じて、感謝のうちに受難節(レント)の期間を歩みたいものです。

2022年3月6日

(説教要旨)

               「 悔い改め」
            〈使徒言行録261923節 〉
  悔い改め(メタノイア)という言葉について、これは福音書において、向きを反転して神に立ち返る、あるいはいるべき場所に立ち返るという意味だと説明しましたが(〈ルカ15章〉の迷える子羊、失われた銀貨;この譬え話の良き羊飼い、無くした銀貨を探す人は、「探す神様」です。放蕩息子;この譬え話の父親は「待っている神様」です。)
今朝は、「パウロは悔い改めをどう理解していたか」という設問をしたいと思います。
 その前に、旧約聖書においてはどうなのか。旧約聖書で「悔い改め」と日本語に訳されている言葉は、ヘブル語でシューブという言葉で、たとえば、ここには「悔い改め」とは訳されていませんが〈創世記8:6〉の洪水物語ではノアが方舟から烏を放った時、烏が「出たり入ったりした」と訳されています。この語は一旦離れて反転し元の場所に戻る動作を示しています。
 そして、パウロの場合。パウロの手紙の中にある「悔い改め」の用例は意外と少ないのですが、たしかにわたしたちがこれまで悔改めるという言葉を反省すると理解してきたように〈2コリント1221〉「自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔改めずにいくのを嘆き悲しむ」のような用例はありますが、パウロが「悔改め」という言葉を使う場合は、これまでの悪癖をやめるということよりも方向転換するという意味で用いています。
 パウロの方向転換とは、自分で必死になって義であることを証明する生き方を止め、(パウロはこの自分の律法学者としての栄光に満ちた過去を塵芥のようだと言っています)、神によって義とされていることを信じる生き方を始めるという内容でした。
 信仰とは反省することだと思う方は聖書中の「反省」という言葉が出てくる箇所を読んで満足して下さい。でも、それは聖書にいう「悔い改め」という言葉の意味とは違う事柄です。
 パウロが伝えたい悔改めとは、「本心に立ち返る」という生き方です。〈使徒言行録39〉「悔改めて本心に立ち返れ」。
パウロは神に立ち返るという言葉と本心に立ち返るという言葉を同じ意味で使っているのです。
それは、自分自身で自分を義とする生き方ではなく、もうすでに神様によって義とされていることを信じて感謝するという生き方です。
 最後に、ここで実は預言者ホセアの妻の話し(ホセアと妻の関係は神とイスラエルの関係)をして説教を終わろうと思ったのですが、同じような主旨なのでウクライナ情勢についてお話したいと思います。
 ウクライナを侵略しているロシア軍は、今、兵士たちの士気の低下に頭を悩ませています。当たり前です。兵士たちには戦争をする大義もウクライナ人への憎悪もないのです。
 あるSNSは、投降した若いロシア兵に、ウクライナの市民たちがパンとお茶を提供して歓迎している場面を配信していました。一人の女性がこの兵士にスマホを貸し、彼はロシアの母親に電話し、母親の顔を見て思わず泣き出すという場面でした。
市民の暖かさが武力行使に勝ち、ロシア兵は一人の青年に戻ったのです。〈ルカ15章〉にある放蕩息子の場面のようだなと思いました。放蕩息子の譬え話の父親は、遠くに息子が帰ってくるのを認め、走って寄って首を抱き接吻したと書かれています。

 

神はそのように暖かいのです。わたしたちが神の元に戻ってくることをそのように待っておられるのです。
わたしたちは、この神の愛に応えて、悔い改めの受難節の期間を歩みたいものです。

2022年2月27日

(説教要旨)
   
                 「誓うな」
 
             〈マタイ福音書53337節 〉 
 そもそも誓う気がないものですから、「どうでもよい」と思って真面目に解釈をしたことがなかった箇所を、今朝は取り上げたいと思います。
 今朝の箇所は「一切誓うな」と書いてあるので、「ありがとうございます」と安心していましたが、ところが、イエスは誓っています。〈マタイ266364〉。パウロも大事な場面で誓っています〈ロマ91〉〈2コリント128〉〈ガラテヤ120〉。今朝の箇所の最初に引用されている「偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは必ず果たせ」は、「誓ったことは必ず果たせ」が要旨です。誓い放しで守れないような誓いはするな。しかし、一度誓ったなら必ず実行せよ。
 「なぜ、イエスはこのようなことを言わなければならなかったのか」と考え、他の文脈から状況を推測すると、今朝の箇所には、2つの内容が書かれてあると思います。
 一つは、律法学者への批判です。律法学者たちは誓いを2種類に分けて、神の名によって誓ったものは絶対に守らなければならないが、他のもの(天、地、エルサレム、頭〉によって誓ったものは守らなくて良いとしていたようです〈マタイ231622〉。ですから、皆も律法学者たちにならって神の名ではなく、天や地やエルサレムや頭の名で誓い、そしてまじめに実行していなかったようです。しかし、イエスは、天も地もエルサレムも頭も神のものであると指摘します。すべての誓いは神に対してするものだ、と。
 今朝の箇所の、もうひとつの内容は、神への信頼への勧めです。
 イエスは、「あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい」と言われます。わたしたちが誓う場合、それは、誰かに「必ず実行する」と宣言する場面です。例えば「あなたがたをエジプトから導き出す」と誓ったとしたら、「あなたがた」に向かって約束したことになります。しかし、実際に皆をエジプトから導き出したのは、神です。皆に誓ったことが実行された場合、「それはわたしがやった」と言えるでしょうか。
  誓いは、将来の事柄について結ばれます。自分の将来は、自分で切り開いでいるかのようで、しかし、そこには神の導きがあるのです。
 
 「あなたがたは『然り、然り』『否、否』と言いなさい」とは、あなたがたは神の導きを「信じる」か「信じない」か、どちらかを選択しなさい。という意味です。わたしは今朝の箇所を「無理して誓わなくてよい。ただ神様の導きだけを信じて生きなさい」とイエスが言われた箇所であるように思うのです。

2022年2月20日

(説教要旨)     

                  「律法について」
                〈マタイ福音書51720節 〉
 今朝の箇所で言う「律法」は、旧約聖書全体を指しています。イエスと律法(旧約聖書)との関係、律法(旧約聖書)とわたしたちを含むイエスに従う者との関係が書かれていて、「福音書中、最も解釈が困難な箇所」と書く注解書もあります。
  聖書は、大きく新約聖書と旧約聖書に分けられます。「約」の語の意味は契約という意味です。神のわたしたちとの約束が文字化されたものが律法、そして、イエスに啓示された神の行為です。2世紀にローマで活躍したマルキオンは、「聖書は新約聖書だけで良い」と旧約聖書を廃棄しようとしました。(マルキオン自身が排除されてしまいましたが)。わたしたちも時々「新約聖書だけ読んでいればよい」という気持ちになってしまいます。
 マタイ福音書によれば、イエスの生涯は旧約聖書の背景がなければ理解できないものでした。例えば、イエス誕生の記事にある「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」〈マタイ122〉。マタイ福音書の最初の読者が旧約聖書に書かれてある神の言葉を、神の約束の言葉を信じて希望として抱いていなければ、上の言葉は不要なものでした。なぜマタイ福音書はあえてイエスはベツレヘムで生まれたと書いたのか。ベツレヘムはダビデ王の故郷だったからです。
  律法は面白い機能を持っていると思います。それは律法の規定の数ほどの犯罪者(罪人)を生み出すという機能です。律法は秩序の保持に役立つかも知れません。律法学者たちが、ありたけの「善意」と「誠実さ」を発揮してその務めを果たそうとした理由でもあります。

しかし、福音書に書かれてある通り、律法学者たちは、犯罪者(罪人)製造機でもありました。2週前の礼拝では、「罪人」と「穢れ(汚れ)」の関係について考えました。3週前の礼拝では、優秀な律法学者であったパウロが、彼の善意を全面的に発揮して律法学者としての務めを果たしてきた自分に嫌になってしまったことについて考えました。 

 今、わたしたちは旧約聖書に書かれてある文言の一言一句を忠実に遵守することによって「わたしはりっぱな信仰者だ」と思い込むことはありませんが、パウロが嫌になってしまった犯罪者製造機たる律法主義者になる可能性は充分あります。
 イエスは犯罪者(罪人)の側につきました。イエス自身が極悪人(死刑囚)として十字架に就きました。イエスは律法を廃止する為にこの世に来たかのように見える「秩序を乱す者」でした。しかし、そのようにして旧約聖書に約束されている神の愛を示されたのです。 

2022年2月13日

(説教要旨)

              「教会教」
 
         〈マタイ福音書8章1~4節 〉
 マタイ福音書は5章から7章にかけて「山上の説教」と言われるイエスが説教をされる記事が続きます。
山の上は聖なる場所と考えられていました。そこで多くの人に説教をされたのです。
 8章に入ると「イエスが山を下りられると」という書き出しから、イエスはいきなり現実世界に飛び込みます。重い皮膚病を患っている人をいやし、百人隊長の僕をいやし、多くの病人をいやしたと書かれています。
マタイ福音書記者のとても意図的な記事の編集の仕方です。
 わたしはこの編集の仕方から、教会のなすべきことが示されているように思うのです。
教会にはたくさんの心優しい人たちがいます。信徒たちの交わりはおだやかで楽しいものです。これは教会の大きな魅力です。 教会に行き始めた最初は、皆りっぱな人のように思えるが、半年もすると「どうもそうではない」と分かり、それからが気楽になって、おだやかに癒される教会生活を送ることができます。わたしは高校生の頃に下宿生活をしていましたから、寂しいので教会に入り浸っていました。
 一方、学校を卒業して牧師になろうとする時に、高校生の時から世話になっていたE牧師がわたしに話してくれた言葉を思い出します。
 「牧師の仕事は教会員の世話だけではない。教会員は放っておいても互いに交わりをして助け合う。牧師は教会員以外の方の世話をする為に教会に招かれているのだ」
 「教会教」という言葉は一般的な用語ではありません。1951年から1981年の31年間北海道で活躍したFハウレットというカナダ合同教会から派遣された宣教師が書いた自伝の本の題名 ”Beyond Churchanity””churchanity”をどう訳すか、最近、みんなで考えた訳語です。
「教会教」という言葉の意味は、教会の中だけで信仰生活を完結してしまうこと、教会の維持だけが宣教活動の目的となってしまうことを指しています。

 30年ほど前、フィリピンから派遣されたヘッドリー・カディールという宣教師は、1ヶ月ほど日本で活動をされて、別れ際に言いにくそうに、「日本のクリスチャンは盆栽クリスチャンですね」と言われました。日本に来て盆栽というものがあると知った。盆栽は小さく纏まって完結した世界を作り上げている。日本の教会は盆栽のようだ、そう言われたのだと思います。”beyond”はそこから脱却しなければならないという意味です。
 エキュメニカル・ムーブメントという言葉が(これは京葉教育文化センターの理念でもあった筈ですが)、最近、「超教派の運動」という意味で使われるようになっているのは残念です。この運動は、そもそも、教会がクリスチャンではない人々と共同でこの世の問題に取り組む運動を指していました。


みなさん、教会は今、差別が存在する現実に取り組む、あるいは立ち向かう必要があると思います。
 今朝の箇所では重い皮膚病を患っている人がイエスに「御心ならば清くすることができます」と言い、イエスは「よろしい。清くなれ」と言われます。

 

「清くなる」の対義語は「穢れる」です。
仏教、バラモン教、ユダヤ教、ユダヤ教について言うと〈レビ記1116章〉にはどのような場合が穢れとなるかを規定していますが、「穢れた者」を「罪人」としました。そして残念ながらキリスト教も。
 これらの宗教は「穢れ」という概念(教義として形成されましたから、強い拘束力を発揮します)を生み出して、これを社会階層に位置づけして固定化し、たくさんの差別される者、虐げられる者を生み出してきました。
イエスはこの現実を否として「あなたがたは、そもそも、決して穢れてはいない」と言われたのです。
 わたしたちもイエスに従って現実世界に飛び込む宣教活動をしたいものです。

2022年2月6日

(説教要旨)

 

                     「心の欲せざる悪」
 
                〈ローマ信徒への手紙71325節 〉
 聖書にいう「罪人」とはどのような人たちなのか。先週は福音書にある「罪人」について読みました。今朝はパウロが「罪人」であることをどう理解していたのかを読みたいと思います。ただし、今朝の箇所は(何度も解釈を試みているのですが、そして、重要な何かを示していると思うのですが)上手に解説できるとは思えません。
 Kバルトは『ロマ書講解』の、今朝の箇所を解説する冒頭で「まさに宗教的人間こそ、その本姓からして罪人なのである。宗教の為に罪が氾濫する。その結果、神の憐れみがいかなる意味をもつべきかが判明する」と書いています。パウロは「宗教人であるわたし」について今朝の箇所を書いているのです。
 パウロ書簡において「罪人」の語の用例は多くはありません。〈ロマ 3758519〉〈ガラテヤ 215217〉〈1テモテ115に2回〉のたった7箇所です。
 今朝は2か所の言葉にだけ注目したいと思います。〈ロマ58〉には「わたしたちがまだ罪人であった時」と書かれてあります。パウロは優秀な律法学者でした。先週のイエスの言葉を借りると「正しく」「高潔な」、そして「イエスの言葉に聴く耳をもたない」存在でした。パウロは正しく高潔な者として人々を裁き、罪人を大量生産する毎日に嫌になってしまったのだと思います。 パウロは〈ガラテヤ216〉で「律法の実行によっては誰一人として義とされない」と書いています。律法を守っているからわたしは罪人ではないと思い込んでいるのではなく、ただ神の義(憐れみ)によって生きることによって、わたしによってではなく、神によって今は罪人ではない。そう言いたいのです。
 もうひとつ〈ロマ519〉には「一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされた」と書かれています。「一人の人」とはアダムのことです。人類すべてが罪人であるとされた。「わたしが、今、この世に存在していること自体が罪人のそれである」というのです。自分がどれほど善意の人であっても、わたしはこの世の、アダム以来の歴史と歴史的罪(7:1921節では「悪」)を背負うて生きることから免れないという自覚でもあります。
 「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」〈719〉。善を行おうと願うパウロは「心」と「肉」の自己分裂を自覚しています〈725〉。これは宗教的人間が抱く永遠の自覚であるのかも知れません。
 わたしは善いこと、正しいことをしているつもりであるが、果たして本当に善いこと、正しいことをしているのか。それができる存在なのか、永遠に問い続けるのが宗教的人間であるのかもしれません。
結局、パウロは、ただ憐れみの神のみが善を行うという結論に至ったのだと思います。

2022年1月30日

                   「罪人を招く」
               〈マルコ福音書21317節 〉
  聖書にいう「罪人」とはどのような人なのか。わたしは福音書にいう「罪人」とパウロ書簡にいう「罪人」とは内容が違うように思います。今朝は福音書にある「罪人」について読みます。
 次週は、〈ローマ信徒への手紙〉を読んで、パウロが「罪」をどの理解していたのかを読みたいと思います。
 今朝は、イエスがアルファイの子レビを弟子にする場面です。一般的に、彼はマタイとして知られています。並行記事の〈マタイ福音書〉では彼の名はマタイ。〈ルカ福音書〉ではレビと書かれています。
 彼は徴税人でした。〈14節〉にある「収税所」とは、道行く運送物に課税する所であったようです。
何度もお話しているように、新約聖書において、「徴税人」は「罪人」であるとされていました。
〈ルカ19110節〉)にあるザアカイが「罪深い男」と書かれているのも彼が徴税人であったからです。同様に病気の人も「罪人」でした。福音書には120数名の病気の人たちが登場します。
その他、「汚れ」に該当すると思われる大勢の人々が律法学者たちによって罪人と断罪されていました。
イエスは、その職業の人や病気の人は、そもそも、初めから罪人ではないと宣べ伝えたのです。そのことは、福音書においてイエスの言葉で「あなたの罪はゆるされた(ゆるされる)」と表現されています。
 今朝の箇所において、「徴税人と罪人たち」という言葉が〈1517節〉に3回くりかえされていますが、この言葉はNew English Bibleという英語の聖書では「評判の悪い人たち」(bad characters)と訳されています。たしかに徴税人は評判が悪かったようです。
燃焼とは酸素との結合であることを発見し「質量保存の法則」で有名なフランスのラボアジェも、18世紀、フランス市民革命時に革命裁判所によって処刑されてしまいました。徴税人であったからです。でも、評判が悪いだけで、イエスの目から見ると徴税人は罪人ではないのです。
 もうひとつ、Today’s English Versionという英語の聖書を読んでみると「罪人」は「見捨てられた者」(abandoned) という言葉に訳されています。〈715節〉の「多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた」は「多くの徴税人や見捨てられた者たちもイエスや弟子たちと同席していた」と読んでよいのです。
 並行記事の全てにある律法学者たちを指す言葉、「正しい人」は、New English Bibleでは「高潔な・尊敬すべき人々」(respectable people)と訳されています。たしかに律法学者たちは「尊敬すべき」「高潔な」人々とされてました。
でも、この時のイエスの言葉は、律法学者たちへの皮肉に満ちています。
「現代聖書注解」の『マルコ福音書』を書いたL.ウィリアムソンはもっと痛烈です。
「わたしたちがイエスの言葉を聞くことができないのは、わたしたちもまた自分が『正しく』『高潔である』と思い込んでいるからである」。
 並行記事の〈ルカ福音書〉は、今朝の〈マルコ福音書〉に、相変わらず「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とわざわざ「悔い改める」という言葉を加筆しています。
「悔い改める」という言葉は「反省する」という意味ではなく、向きを換えて、居るべき場所に戻るという意味です。「あなたがたは罪人だ」と「見捨てられた者たち」が「あなたがたは罪人ではない」と宣言されるイエスのところへ、大ぜい集まってきたのです。

2022年1月23日

(説教要旨)
 
                「神の箱」
              〈サムエル記上 5 章 〉
 今朝の物語は、まだイスラエルに王国が作られていない士師記時代のこと、神の箱(契約の箱、主の箱)がペリシテに奪われてしまった話です。
 神の箱は、モーセがシナイ山で神から与えられた十戒が納められている箱でした。大きさは長さ130㎝、幅と高さは80㎝。祭司が且いで戦闘などの重要な場面に繰り出されて居ましたが、ヨシュアの時代以降は主にシロの幕屋の至聖所に安置され、ソロモン王の時代になってエルサレム神殿に置かれていました。
 神の箱は、ヨシヤ王(紀元前609年没)の時代のことが書かれている〈歴代誌下 353〉を最後に聖書に全く登場しなくなります。南王国ユダは、B.C. 609年からエジプトに支配されていましたが、それ以前にエジプトに戦利品として奪われてしまったようです。(映画 『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』では、契約の箱はエジプトのナイル河畔タニスにありますが、これはB.C. 7世紀にエジプトの王朝が置かれていたのがタニスであったからです)。
 突然、神の箱については興味を失う聖書ですが、そもそも、聖書において神は箱に納められているようなものではなく、荒野を彷徨う民の呼ばわる(助けてくれと叫ぶ)声に応えられる神です。
 今朝の話は、聖書の神理解を示す興味深い記述です。神の箱は戦闘中ペリシテに奪われてしまいますが、〈サムエル記上4章〉、アシドドに置かれた神の箱が独自にペリシテとたたかうのです。ペリシテは、困ってしまい、神の箱をイスラエルに返却してしまいます。〈サムエル記上6章〉
 今朝の話は、神がどのような方であるかを示しています。わたしたちが信じる神は、わたしたちが勝利する時に勝利するのではなく、わたしたちが敗北する時に敗北される方ではないのです。
 わたしたちが信じる神は、わたしたちの知恵や常識に縛られてはいません。「一日中労苦したわたしたちと1時間しか働かなった者の賃金がなぜ同じなのだ」と文句をいうひとびとに「わたしの自由にする」と応えられるのが神なのです〈マタイ20:1~16〉。
 神は独自にたたかわれる。わたしたちの勝ち負けに関係なく、わたしたちが捕らわれている知恵や常識に関係なく、神は救いの道をわたしたちに備えておられるのです。

2022年1月16日

(説教要旨)
                       「自分の秤」
 
                  〈マルコ福音書42125節 〉
 今朝の譬え話は、イエス御自身が譬えられています。この譬え話は、4章の最初にある撒かれた種の譬え(3~9節〉とその最初の説明〈1012節〉に見られる弟子たちへの励ましを補強する役割を果たしていると考えられます。
 「あかりは枡の下には置かない」の枡は灯りを消す為のものです。「あかりは寝台の下に置かない」は「あかりは隠されるために置かない」という意味です。
 あかりは、この世の光であるイエスを譬えています。はっきりと、世の救いのために来られたイエスを、弟子たちも含めて誰もそう思ってはいないので、イエスはそう言われるのです。イエスも「ほの暗い灯心」〈イザヤ4214〉なのです。
 わたしたちも、イエスの言葉をどう聞いているでしょうか。ちょっと気の利いた人生訓としてでしょうか。自分にではなく、誰かに教訓を与えるための名言としてでしょうか。
 秤は、わたしたちが譬えられています。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられる」は、きびしく聞く側の様子が問われている言葉です。「何を聞いているかに注意しなさい」は、〈並行記事ルカ818〉では「どう聞くべきかに注意しなさい」と書き換えられています。
 聖書は、確かに最初の1ページから最後の1ページまで人間が書いたものです。しかし、わたしは聖書の言葉を神の言葉として読むべきであると思います。
 聖書を書いた人々は、「救われない現実」にしっかりと目を向け、「ああ、神様、わたしを、わたしたちを救ってください」「神様、わたしを、わたしたちをお見捨てになったのですか」と神との格闘をしていたのだと思います。
 〈23節〉の「聞く耳のある者は聞きなさい」との言葉で求められている態度とは、「救われない現実」の中で、そこにしっかりと目を向けて聞けということだとわたしは思います。
 宗教各派は、今、信徒の減少を起こしています。日本キリスト教団ばかりではなく、(もちろん、社会問題に目を向けたから信徒が減少したのではありません)。日本の世界の宗教各派がそうなのです。わたしは、その原因は「皆が現実に目を向けられなくなった、目を向ける気がなくなったからではないか」と思うのです。
 〈25節〉の「持っている人」が持っているのは、神の言葉に聞く耳を持っているという意味です。自分の、自分たちの現実にしっかりと目を向けることが出来て、「ああ、神様、救って下さい」と願う人が、聞く耳を「持っている」人なのです。

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