「説教要約」

受難節第3主日説教           No,46            2024/03/10

説教「それでもなお、わたしを」       ヨハネによる福音書 6章60節〜71節 

 

「自殺は罪」という考え方がある。果たしてそうなのか。時に私たちは、あまり考えずにそれらの考えを受け入れていることはないだろうか。大事なことは自分の答えを見つけることである。

 今回の箇所は弟子とイエスの会話であるが全く噛み合っていない。弟子たちはイエスの言葉(41節:わたしは天から降って来たパンであるや51節)を受け入れることができない。結果、弟子の多くがイエスから離れる。イエスの言葉を理解せず弟子たちはイエスが語る見えない触れられないパンよりも、守れば許されるのだという律法の方が楽だったのだ。つまりこの弟子の姿は、まさしく分かりやすい答えを求めている人間の姿だ。イエスの言葉を立ち止まって考え向き合い、自分なりに答えを出そうとはしない。イエスと出会い本当の恵みを間近で与えられながらも、目で見えることによって安心する考え方へと促されてしまう人間の姿がここにある。

 そして70節でイエスは「あなたがた12人は私が選んだのではないか。ところがその中の1人は悪魔だ」 と語る。ヨハネ著者はこれがユダであると記す。冒頭で記した自殺は罪という考え方はユダの死の描写が影響を及ぼしている。マタイ福音書ではユダが首を吊って死んだことが記されているからだ。しかし使徒言行録には全く別の死に方が記されている。私は牧師になった当初、このユダの死を(裏切り者は所詮裏切り者、救われないのだとする聖書の描写)を、どう考えればよいか分からなかった。しかし「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(コリ15:3-6)  新約聖書の最初期に記されたパウロ書簡には12人の元に復活のイエスが現れたと記されている。

イエスはどのような私でも赦してくださる方なのだということが、ここに証明されている。どんな私であっても、イエスは祝福の言葉を投げかけてくださる方なのだ。受難節の時、自己中心的な己と向かい合いつつ、また同時に、どのような私であっても赦しを与えられるイエスを知る時、イエスの本当の愛を覚え、この時を歩んでいきたい。

 

 

受難節第2主日説教           No,45            2024/03/03

説教「見えるあゆみ」       マタイによる福音書 9章1節〜25節 

1節では、弟子たちがイエスと共に行動していながらも未だ当時の固定観念に縛られている姿が描かれる。その考えに対して3節のイエスの返答にグッとくる。しかし続く4節の言葉に困惑する。この4節の箇所では「私たちの苦難とは神を証する大事なもの。感謝を持って受け入れるべきだ」という解釈がある。苦難こそ恵みという考えが生み出された箇所の一つだ。そう考えられるのは大切だが、他人にそれを強いることではないと、私たちは覚えておかなければならない。

 癒された盲人は、もはや偏見や差別を受けることは無くなったはずが、ファリサイ派や周囲の人たちは未だ彼を批判しようとする。しかもファリサイ派とは所謂、在家の信徒運動だ。律法学者から聖書を学んだ地元民によって構成されている人々のことであり、癒された盲人と同じ場所で生きる人々であったと考える。けれども彼らは共に生きようとするどころか、未だに拒否する姿を見せる。このファリサイ派が見せるイエスへの執着を見る時、イエスが殺される場面や森達也監督の『福田村事件』での集団リンチの場面を思い出す。そしてまた新型コロナウィルスによって集団化され自主警察や非国民という言葉まで出た今の日本の姿とも重なる。同時に、大事にしなければならない命の尊さを考えるより、様々な恐怖が自分を支配していたコロナ流行時の己を思い出す。

 盲人だった方は最後に「あの方が罪人かどうか、私にはわかりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかった私が、今は見えるということです」と語る。集団リンチのような場面で、この人は自分の思いをしっかり言葉にする。その姿を見る時、私たちは今まで一体何を見てきたのか、見ようとしてきたのかを考える。

 ヘレン・アダムス・ケラーは「盲目であることは、悲しいことです。けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しいことです」と語る。いつの間にか世論や固定観念によって、見えなくなっている(見ようとしていない)己に気づく。けれどもそれでも私たちは様々な選択肢に立つ時、何かを見ようとする時、その先にイエスが待っておられる景色を見たい、選んでいきたいと願う。

 

受難節第1主日説教           No,44            2024/02/25

説教「私の中にあるもの」       マタイによる福音書 4章1節〜11節 

 受難節第1主日を迎えた。今回の箇所で悪魔はイエスに3つの誘惑を行う。石をパンに変えてみたらどうだ、神殿から飛び降りたらどうだという、この2つの誘惑と向き合う時、私たちの中にも出てくる感情であり疑問ではないかと感じる。イエスが石をパンに変えたら、この世に飢餓はなくなるのに。神がいるならばなぜ、この世に飢餓や貧困が起こるのか。また神殿から飛び降りれば、という神のイエスへの愛情を試す誘惑は、私たちもまた自分が予想もしない道を示された時、神の愛を疑い、嘆きそして感謝することも忘れていく私たち、神の愛を自分の都合ではかろうとする私たちであるとも言える。そう感じる時、新たな問いが生まれる。「悪魔とは一体何なのか」というものだ。

 アートバイブルの今回の箇所を見ると興味深い絵が掲載されている。時代によって悪魔の姿が変化していくのだ。最初に書かれた絵はおどろおどろしいある意味、私たちが想像する悪魔の姿。しかし後世になればなるほど、悪魔が人間の姿とよく似た姿で描かれていく。画家の方々は私たちの中に「悪魔なるもの」がいるのだと考えたのではないだろうか。そう考えて、3つ目の悪魔がひれ伏し、私を拝めと言った言葉を見る時、この言葉は悪魔=人間、つまり自分自身を拝めと言っているとも解釈できる。何故私がこんな目に何故こんなことがと思い、自分の思いを正当化すればするほど、私たちは自らを神にしてしまっているのではないだろうか。

 この考えは聖書に、そしてイエスの死にも描かれていく。荒井 献さんはユダと

ペトロが何故ここまで違うものとして描かれているのかについて「ユダの裏切り度を強化しユダは一方的に悪魔化され、彼の死が不信仰あるいは罪に対する神の裁きとみなされていく」-『ユダのいる風景』と記す。つまり私たちが向き合いたくないものをユダに押し付け、また悔い改めると言いながらも、その本質とは向き合わず、切り離してしまったものこそが悪魔というものなのだと言える。

  受難節が始まったこの時、自分の中にあるもの、また己の弱さや限界にしっかりと向き合って歩んでいきたい。

 

降誕節第7主日説教           No,43            2024/02/18

説教「信頼に生きる」       ルカによる福音書 5章17節〜26節  

 今回の箇所は中風の人を癒す内容。マルコ・マタイ・ルカ(共観福音書)に記されているが比較すると違いが見られる。まず20節。ルカだけ「罪が赦された」という言葉を現在完了形で記している。つまりその時だけ許されているのだではなく許されているのだという継続的な意味を示す。また信仰と訳されている言葉は本来「信頼・誠実」と訳されるべき言葉。つまり男たちはイエスが誠実で常に信頼に値する方だと思い連れてきた。そしてイエス自身もその男たちの自分に対する真っ直ぐな絶対的な信頼を見て癒しを行ったということ。信仰とは信頼なのだと思う時、ドイツでの出会ったイラン人Aのことを思い出す。今年1月末にイランでヒジャブへのデモへ参加した男性に死刑が執行がされた。その報道を耳にしながらAが「ヒジャブの件で逮捕される人たちは『神を冒涜したから』と言われ捕まる。私が信じてきた神は、この自由を怒る神なのか、もう何を信じれば良いのかわからない」と私に訴えた言葉を思い出す。

 2.11を迎えた。たとえこの国のキリスト者が少数であっても、基本的人権の中にある「信教の自由」に立つこと、そして自分が作り上げた神を信じようとしていないか一歩引いて考えることが大事だと改めて考える。今回選んだ賛美歌377番「神は わが砦」について川端順四郎先生は、ナチス政府がこの歌を軍歌として最大限に利用したこと、しかし本来ルターがこの歌に込めた思いは、たとえ苦しみ悩みがあっても、神の助けが必ずあり愛が常にあるのだという、ルターの神に対する圧倒的な信頼が記されている。そして同時にそんな信頼に生きる私たちキリスト者が信仰を育む為に作られた曲でもあるのだと紹介する。(『さんびかものがたり』)

今回、癒された人もまた信仰が育まれていく姿がある。イエスは彼に「床を担いで帰りなさい」と言う。しかしもう彼には床が必要ない。イエスはここで「今度はあなたが苦しんでいる人を運んでくる番なのだ」と言っているのだと私は思う。

 様々な不安が私たちにはある。けれども神を信頼する歩みを、今度はあなたの番なのだという招きに応えていく歩みを重ねていきたいと願う。

 

牧師室から

先週の月曜日は東京同信会の送別会。昨日(3/9)はYMCAリーダー卒業礼拝の説教奉仕。

そう、お別れの季節である。以前、ある年配の牧師が「牧師は孤独な職業だ」と仰っていた。なんとなくわかる。そしてこの発言をされた方は何十年も牧師をしながらその思いを抱えていたのだと今更ながら気づく。でも孤独であっても孤立ではない。

 東京同信会では7名の牧師が次の任地へ行かれる。知らない土地に行かれる方もいる。確かに様々な意味で孤独を感じる時がある。けれどもそんな時、自分たちを鼓舞する1つは

 

同労の存在だ。あの地で仲間が頑張っている。だから自分も頑張れる、という思いだ。7名の方々の中には中学生の時からお世話になっていた方や、同じ時に神学館で学んだ先輩もいる。正直寂しい。でも新天地で頑張ろうとしている同労者がいる。その存在が私を励ますとも言える。問題なのは、出ていかれる先生方にとって、私の存在は仲間の枠組みに入っているのかどうかだ。大事なことは私の一方的な思いではなく、両者がそう思いながら励まされることだ。それは牧師同士の話だけではなく、他者との共生としても大事なことだと実感する。東日本大震災から間もなく13年目を迎える。私は被災者の方々とそのような歩みを重ねて来れたのだろうかと考えている。

 

 

深夜と朝方に地震が相次いだ。久しぶりに経験するあの揺れ。色々と気になり、この週末あまり眠れなくなった。(皆さんはどうでした?)。気分が落ち込んだ時や悩んでいる時、空(雲の動き)を見たら良いと姉の友人が小学生の時に教えてくれた。ぼーと見ていたら、自分の悩みなんかがちっさく感じるからと。そのアドバイスを私は今も実行している。今週はよく空を見上げていた。もっと正確に言えば空を見る時間を積極的に増やした、と言った方が良いだろう。

 そんな私に気づいてなのか、朝、車を降りると光の子幼稚園の子どもたちが伊勢ちゃん、あげるーと言ってお花を持ってきてくれた。どこにこのお花があったの?と聞くと、すぐ下を指さす。そう、いつも通っている所にめっちゃ咲いていた。私がただ気づいていなかったのである。しんどい時は上を向く、という自分が決めたルールに縛られすぎて、地面に咲いているお花が見えていなかった。下を向いたって良い。無理に上を向く必要もない。下を向いても楽しい世界が広がっているのだ、と園児に教えてもらった。結局、ほのぼのした1週間だったなと振り返っております。感謝。2/253/2分)

 

 

 

 

223日(金)、お誘いを受けて明神小学校にて「夢見る公立校長先生-子どもファーストな公立学校の作り方-」という映画を見てきた。しかもその映画に登場された1人の先生のトークショーつきだった。映画では7名の校長先生が取り上げられ、子どもファーストな教育とは何かという視点でそれぞれの方針が紹介される。公立でこんな自由にできるのかという驚きと共に、子どもたちの輝いた目と表情が印象的だった。

  映画とトークショーで仰っていたのは、コロナ禍での学校方針をどうしたか。ご自身が実行されたコロナ対策と共に、コロナが流行した初期、右向け右になった日本への驚きも話されていた。私もお話を伺いながら、礼拝がちゃんと行われていないか、見回り教会の写真を撮っていった自主警察のような人がいたことを思い出した。周りとは違うことをしたり、違う意見を言えば「非国民」とさえ言われたあの時。もはや過去のように捉えてしまっていたが、あの時の空気感をもう一度振り返らなければいけないと強く感じた。ちゃんと一つひとつのことに疑問を持ち、時に否!と言える私はいるのか、しっかり考えなければいけない。

 

214()17()まで関東教区主催の雪掘りに参加させてもらった。初めて参加させてもらったのは私が大学1回生の頃。父親が死んで教会から離れていた私を、また教会へと戻してくれた場所であり、このツアーで私は牧師になりたいと思い始めた。今回7年ぶりの参加。久しぶりの教会に久しぶりのワーク場所。以前訪れていたワーク先の方々が私を覚えていてくださり泣きそうになった。 

 参加者は27名。朝5時半起床、16時までワーク、そして夜は21時まで各地でボランティアをされてきた方々の講演会というハードスケジュールだが、参加者たちは常に笑顔であり真剣だから驚かされる。

 金曜日の講演会時に伺った話を紹介する。「私たちの人生には苦労がつきものだ。できれば苦労・苦しみは避けたい。でも時に苦労が人と人とを繋げ、その苦労が人を励ます。私は一人ではない、あの人も今、離れた場で頑張っている、その思いが人を

生かすのだ」新たな出会いと素晴らしい講演会をしてくださった方々、

 

そして送り出してくださった皆さんに心から感謝。

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