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2018年7月27日 クリスチャンプレス記事
オウム真理教、残る6人の死刑を執行 破壊的カルトへの処刑について 山本光一
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週報「牧師室より」 山本光一牧師

〈2022年9月25日週報より〉

 2010年の春以来、12年と半年間、みなさんと共に、わたしたちに先立って神様がされている宣教の業に参加することができ、感謝いたします。

 

 光の子幼稚園、京葉教育文化センターと共に宣教活動を組み立てることができるのは、京葉中部教会の大きな長所です。これからも、ますます神とこの世に仕える宣教の業に励まれますように。

みなさん、ありがとうございました。    

(転居先住所)

057-0011 北海道浦河郡浦河町旭町

 47-4 まよえるハウス 2-101                  山本光一

 

〈2022年5月22日週報より〉

 先週の京葉教育文化センター公開学習会で勉強したのは「思っていたより、貧困が深刻に拡大している」ということだった。統計的な資料によって概要を把握することができたが、統計的数字以上に、一人ひとりに寄り添う活動の様子を伺うことができ感謝だった。「この問題は善意だけでは解決できない政治的問題です」という言葉が印象的だった。

〈2022年2月6日週報より〉

 ここに書くことが思いつかず、今日は会堂に存在する数の遊びについて。
 玄関アプローチのタイルの白い部分はフィボナッチ数列で敷かれてある。(自然界にはこの数列がたくさん存在しています)
 礼拝堂正面の聖餐台の縦横比は、1:√2である。つまり無限に2等分割しても縦横比は無限に1:√2である。
 礼拝堂正面の十字架は、仰角45°で縦横比が32に見えるよう、十字架の縦の長さと位置が計算されている。十字架の高さと同じ距離で離れ、見上げると仰角45°です。

 

〈2022年1月9日週報より〉

16日は大雪であった。
 音が雪に吸い込まれて静まり返った街を眺めながら、 「雪の中を過ごしたあの時は厳しかったが、今になって良い思い出になるものだな」と思った。
 通学途中にわたしが手袋をしていないのを見て手袋をくれたお姉さんや、雪にハマり動けなくなった車を黙って押してくれ、立ち去った人たちのことを思い出した。 
 厳しかったあの時を、人の優しさを知った良い時だったと思い出すことができるのは、幸せなことだと思った。

 

〈2022年1月23日週報より〉

 昨年末から、高校を受験したい子に日本史を教えているが、ある日、勉強をしているYちゃんが不満そうだった。「どうした?」と訊くと、「これは支配者たちの歴史だ」
 たしかに。教えているのは聖徳太子、推古天皇、源頼朝、豊臣秀吉・・・。
 わたしたちの歴史を創って来たのは本当は誰だったのだろうか。政治的局面を見ると支配者たちの名が注目されるが、実は政治的局面を創って来たのは無数の無名の人々ではなかったろうか。
 「寡婦の声は地においては聞かれず。されども『聖き住まいにまします神は、孤児の父、寡婦の保護者なり』〈詩篇685〉。しかして天は地をゆすぶるものなれば、天に達する寡婦の声はついに地におこなわるるに至る。」(内村鑑三「かすかなる非戦」)という言葉が思い出された。

 

〈2021年11月21日週報より〉

 昨日、西千葉教会での学習会の冒頭で吉高叶牧師が言われたことが印象的であった。「コロナ禍に我々は拝が正常に行われず苦労した。しかし、教会がなすべきは、この世の声を、この世の様子を受信することではなかったか。教会は、発信する救いの内容はそのままに、インターネット配信など発信する新たな方法をみつけたと喜んでいるだけではなかったか」厳しい指摘だった。

 

〈2021年11月28日週報より〉

 先週、あるZoom座談会で後宮敬爾先生が
「教会は、コロナ禍で財政的苦労を経験している。大きな教会が小さな教会より財政的打撃が大きいと言われているが、それは違う。教会が外向きであるか、内向きであるかで違っているのだ。実際、外向きの教会は、財政的打撃がほとんどない。不思議だ」
 なぜそういう状態が生じているのか。京葉中部教会もそうなのだが。

〈2021年10月3日週報より〉

今朝の聖書の箇所は、勉強しても分からなかった。今朝の箇所にある「怠惰な生活をしている者」とはどのような人たちだったのか。この設問でいくら調べてもはっきりした答えが見つからない。
 聖書を読むと「分からないこと」が次々と出てくる。
 「勉強していればいつか分かるだろう」と思っていたら、もう69歳になってしまった。ポンテオ・ピラトがイエスと対面して、その最後に 「真理とは何か」と呟くが、わたしは最後まで、ポンテオ・ピラトのように、分からないことが山積みのまま終わるのだろうと思った。


 〈2021年9月5日週報より〉

先週は稲葉奈々子先生に来ていただき「日本に滞在する外国人の抱える問題」という題で、講演をして頂いた。近代日本以降、外国人はどのような境遇に在ったか。君たちには権利などないという境遇ではなかったろうか。安く使える労働力という見方しかして来なかったのではないだろうか。ドイツでは入国すると一年間国費でドイツ語を勉強する制度であるそうだ。「日本人と外国人では権利や境遇が違って当たり前」という環境を変えなければならないと思った。

〈2021年8月22日週報より〉

「(収容)第三十九条 入国警備官は、容疑者が第二十四条(強制退去について書いてある)各号の一に該当すると疑うに足りる相当の理由があるときは、収容令書により、その者を収容することができる。」
 水曜日の午後は、牧師室に籠って「出入国管理及び難民認定法」を読んだ。これまで読んだことがなかった。
 今年3月、スリランカ国籍のウィシュマ・サンダマリさんは収容中の名古屋出入国在留管理局の施設で充分な治療を受けられず病死された。彼女に関わる医療関係・処遇関係の書類等を遺族代理人が行政文書開示請求をしたところ、156760円の「開示実施手数料」の請求とともに、今週送られてきた15000枚の書類はほぼ黒塗りだった。知られたくない内容とは何だったのだろうか。「出入国管理法」は、日本人のわたしたちにしか変えることが出来ないものなので、もう少し頑張って勉強しようと思った。


〈2021年7月25日週報より〉

 忘れていた光景
土曜の午後、教会に行くと高校生たちが3人で因数分解を解いていた。7時近くまで3人で雑談をしたり、ピアノを弾いたりしていた。
 わたしが高校生だった今から半世紀前もそうだった。土曜日の午後になると教会に集まって遊んでいた。伝道師になって近江八幡教会に赴任した時もそうだった。高校生たちが土曜日になると集まって遊んでいた。
 この時高校生だったEさんが50歳くらいになって、わたしの家に来てくれた時に
「あの時、なぜ教会に来ていた?」と訊いたら、
「進学校だった高校には居場所がなかった。教会の人たちは、わたしが居てもいいんだと思わせた」と答えた。
わたしもそうだった。
「ここに居ても良い」と思える場所が必要だったのだと思った。
「来週も来ていい?」
「いいよ。教会の玄関開けとくから、自由に使いな」

〈2021年7月4日週報より〉

先週月曜日の千葉支区伝道協議会で福嶋揚先生から身に響く講演「危機の時代における教会の使命」を

聴いた。
 特に「キリスト教は気候危機の一原因か」という設問は、身に応えた。
 西欧キリスト教神学に足りない点として「経済への切込みが足りなかった」という言葉があった。

確かにそうだと思う。教会は暴走する車に傷付けられた人に包帯は巻いたが、暴走する車を止めようとはして来なかったのだ。

 自然に即自的であった人間が「産めよ、増えよ、支配せよ」〈創世記128〉と、無限の生産拡大を続けねば維持できない経済制度(資本主義)に行き着いて、人間そのものが自然と人間との疎外を生み出している。
 まず当面、地中に在った二酸化炭素(化石燃料)を掘り出してエネルギーに変えるのは止めた方が良いと思った。温暖化問題は、今、手を打たなければ地球は回復不可能になるという言葉が印象に残った。

生活がちょっと不便になっても良いではないか。

 

 

〈2021年6月20日週報より〉

遠藤周作の『死海のほとり』を読んでいて、遠藤と聖書学者の戸田との会話に 「イエスは年より10歳もふけて見えた」(p.109)という言葉があって「それは、聖書のどこに書いてあったか?」と思った。おそらく〈ヨハネ857〉の「50歳にもならぬのに」が根拠になっているのだろうが、遠藤周作が描くイエスは「疲れているイエス」であるような気がする。7月の読書会が楽しみです。

 

〈2021年3月7日週報より〉

牧師は説教の準備にどれくらいの時間をかけているのか。わたしの場合は学校を卒業して以来42年間その時間はあまり変わらない。勉強に10時間、説教を書き始めて5時間ほどである。つまり、週休1日、仕事時間を一日8時間として、牧師の仕事時間の1/3は説教の準備に費やしていることになる。朝からノートを作り(実際説教に役立つのはほんの僅か)、日が暮れて「今日は仕事をしていたのか?」と思うこともある。
 しかし、アメリカの信徒たちに「教会に何をしに行くのか」と問うたアンケート調査によれば、70%が「礼拝の説教を聞くため」との答えたそうだ。この記事を読むと「遠慮しないで、仕事時間の1/3を説教準備に使うか」という気持ちになってしまう。

〈2021年1月24日週報より〉

財布の中身を見て、最近お金が減らないことに気が付いた。お金を使っていないから減っていないのだ。会議も集会もなくなって
2か月もsuicaのチャージをしていない。ガソリンも入れていない。外食をすることも喫茶店に行くこともなくなった。わたしのような人は多いのだろう。ということは、たくさんの働くことができなくなっている人が生じているのだと実感する。 これらの人たちへの生活を補償する政府の対策はできているのだろうか?とても十分だとは思えない。
年末に行った日の寿地区の炊き出しには雑炊をもらいに450人の方が来られたそうだ。
僅かなことでもよいから、何かできないか。よいアイデアが浮かばないまま時間が過ぎてゆく。

 

〈2021年1月3日週報より〉

(牧師室より 年頭の挨拶)
新年おめでとうございます。
 5年前の心筋梗塞入院以来、子どもの頃からの「今日もあなたに命を与えられ感謝いたします」というお祈りが真剣なものになっていましたが、最近は一年を越したことには特別な感謝の気持ちが沸きます。
 齢をとり、だんだんと仕事をする能力が低下していることを実感しますが、みなさん今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

〈2020年12月6日週報より〉

 □性差(ジェンダー)はいつから生じたものなのだろうか?聖書を読んでいると男性中心が永遠の真理であるかのような錯覚に陥るが、ほんとうにそうなのだろうか?
 先週、時間の余裕があったので佐倉市の博物館で企画されていた「性差の日本史」展に行ってみた。

古墳時代、性差ははっきりとしてはいなかった。卑弥呼に限らず地方豪族の王には女性がたくさん居て、経済活動の中枢では女性が活躍していた。それが律令制、幕藩体制、明治維新という体制変化の度に、女性は政治と産業の分野から追いやられてしまった。「性差が人為的・歴史的に作られたものなら、人間の手で性差を克服できるのではないか」。そう思った。

 

〈2020年8月16日週報より〉

 8月15日になって1956年の映画「ビルマの竪琴」を観た。イギリス軍と日本軍の部隊が「埴生の宿」を歌い合って戦闘に至らず、日本軍の部隊が武器を捨てた場面のナレーションで「3日前に休戦の合意があったことを知らされた」という言葉に引っかかった。なぜ「戦争が終わった」とは表現しないのか。

 8月15日は天皇がポツダム宣言を受諾しますと放送をした日であって、所謂連合国側にとっては、日本が降伏・停戦文書にサインをした9月2日が戦争終結の日であったことに気が付いた。たしかに、北海道では、8月15日以降もサハリンや「北方領土」で戦闘が続き、ソ連の潜水艦に3隻の輸送船が攻撃されて1700名以上の方が亡くなった。8月15日に戦争が終わったわけではなかった

 

〈2020年7月26日週報より〉

 掲示板の「信徒の友」を張り替えていなかったことに気が付いて、7月号をもって掲示板のところに行くと、一人の青年が熱心に掲示板の信徒の友を読んでおられる。声をかけると光の子幼稚園の卒園生であった。

 幼稚園の時に身につけた神への関心が20年以上も彼に残っていることを感じて嬉しくなった。

 読んでいた6月号を彼にあげて、教会の礼拝に来るように誘った。「掲示板は無駄ではない」と思った。

 

〈2020年7月5日週報より〉

 教会堂が、大工さんたちによって着実に形となっていくのを見ながら、いつも思い出す聖書の箇所がある。それは、マタイ14章にある5000人の給食の奇跡物語だ。
  人里離れたところで集会をしているうちに日が暮れかけた。弟子たちはイエスにもう集会を解散しましょうと言う。
 イエスは「あなたがたが皆に食料を与えよ」と言われる。弟子たちは「ここにはパン5つと魚2匹しかありません」と、そんなことできませんと答える。
 イエスはパン5つと魚2匹あるではないかと言われて、それを祝福し、配ったら皆が満腹した。 建築される会堂を見ながら、これからも神様だのみのわたしたちの歩みは続くだろうと思いながら、わたしは今、5000人の給食の奇跡物語を見ているような気がする。

 

〈2020年3月1日週報より〉

 休暇を頂き、北海道の中心にある旭川に行き、講壇と祭壇のスケッチを示して見積をお願いしてきた。

街の気温は-10度。久しぶりに10分も歩くと手や耳が痛くなる経験をした。札幌では当たり前の寒さであったが、千葉の気温に慣れているとかなり辛い。

 旭川家具センターの20年来の付き合いのYさんは、温かくわたしの無理な要求を訊いて手配をしてくれた。極寒の街に温かな人々の心が身に沁みる旅だった。

 

〈2020年1月5日週報より〉

明けましておめでとうございます。

 今年は、会堂建築の工事がいよいよ始まり、会堂の完成を見る年です。

 この計画が立てられた時、「わたしたちがこんな計画を実行できるはずはない」と思いました。しかし、5つのパンと2匹の魚を差し出すと、主は祝福してそれを用いてくださいました。

奇しき主の恵みを共に大いに味わい、共に主に感謝し、ますます隣人に仕える2020年でありたいとおもいます。

 

〈2019年8月11日週報より〉

 北海道から千葉に転居して、家から30分の木更津は身近な存在になった。

ここには航空自衛隊の基地がある。戦争中は海軍の航空隊基地であった。戦争中、最後の特攻機は、この木更津基地から8月15日午前10時に飛び立った。2機の「流星」という二人乗り艦上攻撃機だった。

 一機は、エンジンの故障で不時着し、一機は銚子沖で行方不明となった。

木更津基地の司令官は敗戦を、2時間後の天皇の放送を知っていたのではないか?

 ここ数年の今日は、毎年のようにこの思いが生じ、悶々とする。

 8月15日は、「二度と戦争をすまい」と決意する日を過ごしたい。

 

〈2019年8月4日週報より〉

 札幌に住んでいた頃の最後の数年間、8月6日には必ずのように友人のアレン・ネルソンがわたしの家に居た。朝の8時15分には必ずのように広島市原爆死没者慰霊式をテレビで見ていた。テレビを見ながら「日本人は偉い」と言ったことがあった。

「わたしたち(アメリカ人)は、1975年4月30日のことは、記憶から消し去っている」

 彼は、志願して海兵隊に入隊し、ベトナムで戦争に従軍し、何人もの人を殺したことへの罪責に苛まれながら2009年に亡くなった。

「わたしたちがベトナムで戦争し、敗けたことは、まるでなかったかのようになっているんだ」。彼は自分が人々に忘れさられているかのように、寂しく呟いた。

 二度と戦争を繰り返さないために、わたしたちは74年前の8月6日、9日、15日をどのように記憶し続けなければならないのだろうかと彼の言葉を思い出しながら思う。

 

〈2019年7月21日週報より〉

 一週間お休みを頂いて、3日ほど京都に行ってきた。大学時代の同級生3人に会うのが目的だった。4人は学部は違うが学生時代に核兵器廃絶と基地問題に取り組んでいた。

 大学を卒業して40年間何をしていたのか、一人30分ずつレポートをしてもらった。県庁職員、市庁職員、農協職員、牧師。それぞれ違う職に就いたが、核兵器廃絶と基地問題に取り組むことだけは皆止めてはいなかった。「みんな止めてはいなかったのだ」と思った。止められなかったのだろう。問題は今も解決してはいないのだから。

 問題を次の世代に残す残念さと、40年間この為に力を尽くしたのは無駄ではないという満足感が残った。最後の日に学生食堂で230円のカレーライスを食べて帰って来た。

 

〈2019年7月7日週報より〉

 上智大学で比較宗教学を教える島薗進先生を招いて「知っておきたい天皇代替わり問題」学習会を行った。国家神道の歴史を学んで有意義だった。

 国家神道は、天皇制国家を作り上げる為の明治政府以降の急造りのものだが、神道の歴史は縄文時代に発生を推測できるほど古い。天皇は最高の神官として祭儀を主催した。これが秋の大嘗祭などの今に残った場合、憲法に規定される政教分離原則はどうなるのだろうか。国費を使い、宗教行事が行われようとしている。

 

〈2019年3月24日週報より〉

 4月28日の定期教会総会に提出する報告書が何通も届き、読ませてもらっている。

 のんびりとした教会の活動のような気がしていたが随分とたくさんのことをしたのだなと思った。

皆で手分けしているのでこれだけの活動を維持出来ているのだと思う。「なんでもできる人はいません。でも、何もできない人もいません。みんなが少しずつ力を出し合うこと。それが大切です」というフランスの古い諺を思い出した。31日が報告書提出の締め切り日です。どうぞよろしくお願いします。

 

〈2019年3月3日週報より〉

 戦前からの埋め立て地である枝川にフィールドワークの下見に行った。1丁目は1940年に東京に散在して居られた朝鮮人が都営の住宅に集められた。その頃の長屋の面影がまだ残っている。2丁目は1952年から賀川豊彦の弟子である高橋玲二牧師が愛隣保育園を中心に宣教を始めた。3丁目は1960年に墨田川の言問橋付近でゼノ修道士や北原怜子が活躍した廃品回収の「蟻の町」が移転しカトリック教会を建てた。

 ところが、本で調べても1丁目の朝鮮人居住地、2丁目の高橋牧師の教会、3丁目のカトリック教会の3者の関係が分からない。この3者は互いに関係なく半世紀を歩んだのだろうか。また今週枝川に行こうと思う。

 

〈2019年2月24日週報より〉

日本基督教団から執筆を頼まれた『洗礼を受けるまで』(日本聖書神学校の柳下明子先生、高橋優輝君の指導教授である東神大の小友聡先生、同志社神学部の越川弘英先生との共同執筆)の執筆者会議が3月に集中することになった。本来、特に忙しい3月に入る前に編集作業を終えて4月には出版されるはずだった進行が2か月遅れている。3月は部屋に閉じこもることが多くなると思いますが、皆さんどうぞお許しください。 

 

〈2019年2月17日週報より〉

 先週は、2月11日の「建国記念の日」(信教の自由を守る日)と昨日、3回の天皇制についての学習会に出席した。

 やはり、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義の民主国家を目指すわたしたちは天皇制と相容れることはできないと思った。

 もうひとつ、今秋予定されている大嘗祭は、その内容を吟味すれば天皇が神となる儀式であると理解した。

 確かにわたしが育った札幌の教会は戦争中、神・イエス・聖霊に天皇を加えた四位一体論で有名であった。わたしたちは、この戦争協力を反省して民主国家を目指し、イエスが主であると告白している筈である。今一度自分信仰が問われているような気がした。

 

〈2019年2月3日週報より〉

幼稚園のお誕生会のケーキ
「先生、そのイチゴ食べないの?」
 
「たべないんだよ」
 
「嫌いなの?」
「どうして食べないの」
 
「昔、食べないと決めたんだよ」
 
食べない理由を説明したかったが、今日は止めておいた。
(食べない理由)
 
学生時代、授業中に「5秒に1人餓死している」という統計を聴いて、休憩時間中に同級生数人と、その時食べていたイチゴを教室の窓から捨て、国連WFPが「今年は餓死者0人」と発表するまでイチゴを断つと決めた。(これを、まだ守っている友達いるんだろうか?)
WFP
World Food Programme)によると、2016年は世界の人口の11%、81500万人が飢餓に在る。飢餓の主原因は、気候変動と紛争である。
家庭集会、愛餐会…いろんなところでイチゴが出てくる。いちいち食べない理由を説明するのがメンドクサイので、たいていは黙ってイチゴを残す。
 
理由を説明すると、たいていは冷やかしの言葉が返ってくる。それで、ますます黙る。
たぶん一生イチゴを食べることはできないだろう。それで良いと思う。これは神様との約束なのだから。

 

イチゴが好きなことを知っている祖母が、天国で山ほどイチゴを用意してわたしを待っている(はずだ)。

 

〈2018年9月30日週報より〉

 帰りの電車の中。向かいにおじいさんと高校生くらいの女の子が座っている。

 お祖父さんと孫なのだろう。女の子が、寝ているお祖父さんの肩をトントンと叩き、手話で長い話をし始める。お祖父さんはニコニコしながらその子の話を聞いている。そして、短く手話で返事をする。女の子は安心したような顔になる。お祖父さんはまた寝はじめる。

 これが何度か繰り返され、静かな電車の中に穏やかな雰囲気が漂うのを感じた。

 どんな会話だったのだろうか。今まで必死に外国語ばかり勉強してきたが、そんなものより手話を勉強したくなった。

 

〈2018年7月15日週報より〉

 新刊書『増補改訂「べてるの家」から吹く風』の書評を書くよう「いのちのことば社」に頼まれて、本が送られてきた日に一気に読んだ。本の主役は、統合失調症に苦しむ「べてるの家」の人たちである。

 その人たちに「治せない。治さない医者」川村敏明先生やソーシャルワーカーの向井地良生さんらが寄り添って話が展開される。

 本から「絶望の仕方」を学んだような気がする。絶望し、悩み、苦しむその時は、孤立さえししなければ、それを笑いに変えて、その人が希望を見出すチャンスなのだと思った。

 

〈2018年7月1日週報より〉

 先週は3日間、大阪に招集された教団部落解放センターの活動者会議に出席した。全国から各教区2名ずつ派遣されて50名ほどが出席した。

 かって、教会にとって、被差別部落は救済の対象であった。憐れむべきは、被差別部落ではなく、差別をする側であったことに気づくまでどれほどの時間がかかったか。部落解放運動の歴史を振り返って、解放センターが言う「この運動はすべての人間の解放を願うものである」との言葉の意味を深く噛みしめる3日であったと思う。

 

〈2018年6月3日週報より〉

 深夜、金を数えながら涙が出てきた。67,000円もあった。

 5月14日、ガザで在イスラエル米国大使館のエルサレム移転に抗議するデモ隊にイスラエル軍の狙撃兵が発砲し、60人余りが亡くなり、約3000人が負傷した。

 16日、アハリー・アラブ病院の院長スハイラさんからベット数を増やし、スタッフを増員したいと63,400ドル(700万円弱)の緊急募金の要請が「病院を支える会」の事務局に来た。200万人のガザで突然3000人が病院に運び込まれたら、市内の病院は能力を超えて当然だ。20日と27日の礼拝後に簡単にガザの事態を説明しただけで67,000円。

 「京葉中部教会、やっぱりこういうところがすごい」と思った。

 

〈2018年5月20日週報より〉

 毎年バザーの収益から送信しているガザ地区のアハリー・アラブ病院から緊急支援の要請が来た。イスラエル軍の市民無差別発砲で62人が亡くなり、負傷者3000人の治療の為にベット数などを緊急に増やす必要が生じた。緊急支援のご協力お願いします。

 

〈2018年4月22日週報より〉

 パレスチナ人医師のユセフが母親の心臓手術後の血管造影映像を送ってきた。心臓が鼓動し、血が流れる様子を見ながら「心臓というものはすごいものだ。ひと時も止まらずに今も血を全身に送り続けている」と思った。

 今日の総会に提出された「教会総会議案報告書」を読みながら、「毎年変わらないことも多いが、毎年変わらないで教会の活動を続けられることは、どれほど感謝すべきことであるか」と思った。

 一年間みなさん、大変ご苦労様でした。また新しい年度を歩み始めましょう。

 

〈2018年3月4日週報より〉

 先週日曜日は、王子教会に招かれて「教会の宣教とは何か」というテーマで修養会をした。宣教と言うと、教会の人数を増やすことに直結して考えがちだが、宣教とはキリスト者でない人に宗教的次元を付け加えることではなく、この世の人と共に重荷を担うことだと学んだ。王子教会の人たちは、子ども食堂など人に仕えている業が、実は優れた宣教の業だったことに気づいてくれて、喜んでくれたのが嬉しかった。

〈2018年1月21日週報より〉

 ある伝道集会で、賀川豊彦が「天国とは何でしょうか。地獄とは何でしょういか」と質問されて、「天国とは人を褒(ほ)めることです。地獄とは、人を貶(けな)すことです」と答えたそうだ。この逸話を聞いた時、「賀川豊彦は単純な人だな」と思ったが、今になって、このシンプルな言葉の正しさがなんとなく分かる。

 人とその人間関係は、貶されて良くなるのではなく、褒められて良くなる。神が天地創造の最後にご自分の造られた全てをご覧になって「はなはだ良い」と言われたのも、そのような意図だったかも知れないと思った。

 

〈2017年10月29日週報より〉

 誰の言葉によるものでもない、教会は聖書の言葉によって導かれる。

 時々、聖書の個所について「これはどういう意味か?」と訊かれることがある。すぐに答えられることはほとんどないが、嬉しいものだ。聖書を勉強し始めて40年数年経っても聖書には意味の分からないことばかりだ。分からないことに取り組んでいる人に出会うのは嬉しいものだ。その人は神様と取っ組み合いをしていると思う。

 先週の高橋優輝神学生が選らんだ聖書の個所、今週の岡直子さんの選んだ箇所、事前準備で読んでみてもよく分からない。この個所をどのように解釈されるのか、説教を伺うのがとても楽しみだ。

 

〈2017年8月20日週報より〉

 1943年11月24日、第二回日本基督教団総会は軍用機献納の決議をした。教団は陸軍と海軍の航空隊に2機づつ戦闘機(99式艦上爆撃機)を献納した。最近、この献金運動の中間領収報告書(1944年10月)が秋田楢山教会に保管されていたことが判り、大久保正禎先生からその資料を頂いた。献金運動を始めて約1年後、この時の献金総額は952,620円85銭だった。10万円で豪邸が買えた。米価の変動を基準に計算すると、この額は現在の金額で8億7千万円ほどになる。

 教団がした戦争協力の歴史が分かれば分かるほど厭になってくる。しかし、教団の歴史に責任を持つものとして、この歴史は無かったことにはできない。「二度と、この歴史は繰り返すまい」と思う。

 

〈2017年8月13日週報より〉

 8月9日、伊豆の下田からさらに西に40分走ったところの松崎町へ。初めて行く伊豆です。

その町の平和市民集会で「核兵器の廃絶を目指して~出会った人々に変えられて」という題で話をしてきました。教会の主催なので「10~20人来ればよいかなぁ」と思っていたのですが、たくさんの町の方々が来てくださいました。7000人の町の平和集会で参加数40人はすごい。「一発勝負ではなく、普段から地道に平和の取り組みをして町の方々と交流があるから、こんなにたくさんの方々が来てくれるのだな」と思いました。

 電車の中で原爆投下の11時2分、毎年のように黙祷をしました。全世界から核兵器がなくなりますように。

 

〈2017年8月6日週報より〉

 「一生行くことはないだろう」と思っていた佐渡島に行くことができた。新潟地区教師研修会で話を終えて、佐渡金山に案内してもらった。金山は1601年から1989年まで388年間も続き、坑道の総延長は400㎞に及んだ。どれほどの人達がここで働いたのだろうか。金山の難題は排水であった。その「水替人足」として、全国各地で「無宿人」が狩り集められ、金山に送り込まれ、坑内の奥底で命を落とした。無宿人であるから、命を落としても構わないとの扱いであったのだろう。光り輝く金の、悲しい歴史を思った。

 

〈2017年7月2日週報より〉

 先週、月曜日から水曜日まで100人ほどが集まった教団部落解放センター主催の全国会議に出席した。「アイヌモシリ〈人間の静かな大地;北海道のこと)で差別を考える」というテーマで北海道におけるアイヌ民族の歴史を学んだ。北大医学部教授の児玉作左衛門が約5000体のアイヌ骨格標本・埋葬品を収集し北大に保管されている問題で、アイヌ民族側が原告となった裁判の報告が印象的だった。「わたしたち和人にとって、アイヌは未だに研究や観光の対象でしかなく、本当にシサム(隣人)になっていないのではないか」と、勉強しながら思った。

 

〈2017年6月4日〉

 教区総会の日、電車に乗ってから、「あれ?」と、左手におにぎりをひとつ持っているのに気が付いた。さっき、八幡宿駅の売店で買い物をした時におにぎりを左手に持っているのを忘れて代金を払ってなかった。次の日売店に行き、事情を話して113円を払った。店員さんが「わざわざ、すみません。ありがとうございます」わたしが「いやいや」。どっちが万引き犯なのか分からない会話だった。

 誰かが見ていて「万引きだ」と言われても弁明できない状態だったはずだ。不思議に守られていたことに感謝。

 

〈2017年5月21日週報より〉

 友人の牧師が、「子どもの学費100万円の工面に苦労しているのだが、数万円のカメラを買いたいのだ」とフェイスブックに書いていたので、「会堂建築の費用6000万円。今日はコンビニで140円のカフェラテを買うか、どうするか迷った。たぶん、6000万円には大して影響ないのだろうけど、カフェラテ買わないで家に帰ってコーヒー飲んだ」そう書いたら、「山本先生、教会会計や献金の場合は、140円が6000万円になると思います(^^)うちは、建築費用8000万、教会員40人。割り算すれば、ひとり200万ですが、実際は、140円が積もり積もったのでしょう」と返事が来た。「その通りだ」と思った。6000万円がいつも気になっていること、祈っていることが大切なのだろう。

 ところで彼はカメラを買うことができたのだろうか?

 

〈2017年2月19日週報より〉

 先週月曜日から2日間、教団部落解放センターの運営委員会に出席した。この会議に出席する度に、部落解放とは被差別部落の解放ばかりではなく、人間すべての人々の、囲われているものからの解放をめざしていることを感じる。30名ほどの出席メンバーにその気概を感じる会議だった。

 

〈2016年10月2日週報より〉

 週報のナンバーが今朝で№26になった。年度の終わりが№52だから、今朝で今年度の半分が終わろうとしている。早いものだ。昨年末の術後検査の為に入院したベットで、年度の後半も命が与えられていることを感謝しながら丁寧に一日一日を過ごしたいものだと思った。

 

〈2016年9月4日週報より〉

 今年の夏休みも弟に会うために北海道の浦河に行った。統合失調症の方々が町で暮らすことを試みる

”浦河べてる”のメンバーの一人として元気にたのしく暮らしているのを見て安心した。夜中に彼の部屋に行き、彼が長年苦しめられている「電気虐待器」の話をゆっくり聞くことができた。とてつもなく非現実的な話だが、なんとなく彼が何のことを言っているのか分かるような気がした。

 

〈2016年8月21日週報より〉

 先週お配りした「会堂建築献金を始めましょう」の草案を書いて、最後に「会堂建築は、さまざまな困難に直面する決して容易な事業ではありません。しかし、主の宣教の業を積極的に推し進めようとするわたしたちを、主は必ず守り導いてくださいます。」と書き終え、「ああ、神様!」と思った。

 叱られるかもしれないが、会堂建築をする度に「この業は、神様のソロバンというものがあって、わたしたちの計算を超えたものがある」と実感する。

「ここには5つのパンと2匹の魚しかありません」と言った弟子に、イエスは「それをここに持ってきなさい」と言われ、それを祝福されて5千人が満腹する。そんなことが会堂建築に起こる。「この世に仕える」ことをわたしたちが全うしたときに、必ず神様はその為の場を与えてくださることを信じてこの業を始めましょう。

 

〈2016年7月17日週報より〉

 先週の前半は、教団の部落解放センター委員会の為に沖縄に居た。11日の早朝、東村高江にある米軍ヘリパット基地に建築資材が持ち込まれたことから、委員会をたった1日、深夜の11までに済ませ、朝6時からヘリパット基地前の座り込みにでかけた。

 ゲート前で、北海道の平和運動とは違ってなにか統率がとれている感じがしないのだが、見事に押し際と引き際のタイミングを心得た座り込みの人たちが機動隊とやり合っているのをぼんやり眺めながら、ときどきはその小競り合いに参戦しながら、「千葉に戻って、あれは沖縄のこととしてしまうのは、あまりにも恥ずかしい」と思った。沖縄が頑張ればなんとかなる問題ではなく、沖縄に基地を押し付けているアメリカの極東戦略と日本全体の問題なのだと思った。

 

〈2016年7月3日週報より〉

 千葉支区伝道協議会の後、10月9日~10日に行う「被災地を巡る旅」の企画書を作るために、仙台に出かけた。津波で一帯が被害にあった仙台市の荒浜地区は今も家が点々と立っているだけだ。

 東北教区がここにボランティアに入るには苦労があった。古い集落であった荒浜地区の人々は外部から

人が入るのを嫌った。N牧師が避難所に粘り強く毎日通い、だんだんと信頼を得て、今はわたしが「日本キリスト教団です」と挨拶すると「あ、ご苦労様」と答えてくれる。

 東北教区に寄って被災者支援センターの佐藤真史牧師と夕食を取った。来春教団は支援活動から撤退し、東北教区が独自に活動を継続するという。「ま、しょうがないすよ」と佐藤牧師が言った。わたしたちがだんだんと被災地の人たちを忘れていくことを申し訳なく思った。

 

〈2016年5月8日週報より〉

先週の木曜日、他教区の学習会であったが、「財政から見た教団の歩み」というテーマと戒能信生先生が講師であることに惹かれて狭山市まででかけた。
 教団設立時(1942年)から2014年までの信徒数、礼拝出席数、経常収支などのデータによって教団の動向が分析された。信徒総数は1947年に11万人であったのが増加を続け、1992年に207521人となり、以後減少しはじめて2014年度には173672人となっている。信徒数とは別帳会員を含むので、現住陪餐会員数は常に信徒数のほぼ半数である。現在の現住陪餐会員は85001人。教会数は2005年に最大数の1732であり、現在1714であるから余り減少してはいない。
 1961年の宣教基本方策によって、教団は外向きになり、しかしそのことによって教団は混乱を起こし教勢の低迷を来したという分析があるが、それは正しくない。
 現在の財政的課題は、地方の小規模教会が信徒数減少によって活動を維持できなくなりつつあることだと思った。
 大雑把に言えば、都市部の教会及び教区が地方の小規模教会及び教区を財政的に支える体制を作ることが火急の課題であると思った。小さな教会が個別に消滅していくことはなんとしても避けたい。

 

〈2015年11月29日週報より〉

 今日から12月24日までアドベントが始まる。この期間は悔い改めの期間とされているが、この世と自分自身をしっかりと見つめて過ごしたいと思う。これは勇気がいることだと思うが、わたしたちがこの世と自分自身の闇をしっかりと見つめることができれば、そこに光を見出すことができるのだと思う。


〈2015年12月22日週報より〉

 11月に入り街を歩くとすでにクリスマスツリーを見ることがある。ツリーは本来12月24日に飾るものであった。それが20世紀に入って、クリスマスはビジネスチャンスとなり、ツリーが飾られる日はだんだんと早くなっていったようだ。

 来週から待降節(アドベントが)始まる。わたしたちは、この期間を悔い改めの期間としてしっかりと守り、そして、クリスマスを迎えたいものだと思った。


〈2015年10月25日週報より〉

 ある人から「なぜ牧師になろうと思ったのか?」と訊かれて上手く答えることが出来なかった。

 使命感など無かった。あえて言えば挫折が原因だ。「自分は上等な人間ではない」と痛切に思ったことが、牧師になろうとした理由であるような気がする。半分逃げるようなことだが、自分が上等な人間であることを示すために四苦八苦することは不可能であると痛感したことは、今考えると幸いなことだったと思う。その頃のわたしにとって、破れをそのままで笑いあうことができたのが、教会であった。 

 K.バルトが「ロマ書講解」で「彼(パウロ)は、彼に有るものによってではなく、無いもの(飢えて、渇望しているもの)によって使徒としての任務を果たそうとしている。」と最初のページで書いているように、無いものによって牧師の任務を果たそうと思う。今日は神学校日。牧師を志す方々に主の祝福がありますように。


〈2015年9月20日週報より〉

 昨日9月19日、安全保障関連法案が参議院本会議で可決されてしまった。

・今朝の63歳の爺の願い

 国会議員のみなさん、あの時、わたしが2歳だった時にはこうだったんです。どうぞこの決議に立ち返って下さいな。わたしは63歳になる今まで戦争に行かなずにすみ、平和に暮らすことができた。

 若い人たちにもそういう人生を送らせて下さいな。

第19回国会 昭和29年6月2日 参議院本会議「自衛隊の創設に際し、現行憲法の条章と、わが国民の熾烈なる平和愛好精神に照らし、海外出動はこれを行わないことを、茲に更めて確認する。右快議する。


〈2015年7月19日の週報ですが横野牧師に許可を頂いてからの掲載で遅くなっています。〉

710日に番町教会の横野朝彦牧師のつれあい安子さんが亡くなり、14日に葬送式が行われた。安子さんとは岡山の時代以来、ずいぶん親しくさせてもらった。 葬儀の司式は横野牧師がされた。式辞で横野牧師はマルチン・ ルターの有名な言葉「明日、世界が滅ぶとも、今日、わたしはリンゴの木を植える」を紹介されて、次のように付け加えた。
 「彼女は最後まで木を植えていました。そして、この植えられた木は、今ここにいるわたしたちが忘れてしまったとしても、どこか思わぬところで実を結ぶのではないでしょうか」
   
横野牧師は、M.ルターの言葉によって「安子さんは、最後まで為すべきことを精一杯やりとげた」と言いたかったのだろう。そして、言葉を付け加え「その人の行いは神の永遠の業によって死をもって終わるわけではない」と言いたかったのだと思った。「わたしは、どのようなりんごの木を植え続けているのだろうか」と思いながら家路についた。


〈2015年8月23日週報より〉

今朝の聖書の箇所(マルコ福音書13章32~37節)にある「目を覚ましていなさい」とは、「本気で神に応答し続けなさい」ということではないだろうか。

敗戦記念日に、ドイツの一人の高校生がインタビューに答えて「大戦中のドイツの行為に責任を持てと言われても、正直に言ってわたしにはその実感がありません。しかし、わたしはドイツの未来に責任があると思っています」と答えていた。さわやかな回答に目が覚める思いがした。

「未来に」という言葉を「神に」という言葉に言い換えることができるとすれば、彼女には損ないようのない希望が存在しているのではないか、と思った。

「終末の時・歴史の完成の時を信じるか」とは、神が必ずわたしたちをその時に導かれることを信じることであると思う。


〈2015年8月16日週報より〉

敗戦記念日という言葉には、戦争を開始した政府に対する非難と怒りがこめられているいるように思う。政府は敗戦という言葉は使わず、終戦という言葉に固執する。
 ところで、わたしは8月15日を戦争が終わった日と思えないでいる。ゲリラ戦を命じられた沖縄では9月7日まで戦闘が続いた。
 同じくゲリラ戦を命ぜられたサハリン(樺太)では8月25日までソ連軍との戦闘が続いた。
 宗谷岬の丘に「九人の乙女の碑」がある。樺太の真岡電話局で9名の若い女性電話交換手が、「皆さんこれが最後ですさようなら」と打電し、青酸カリで自決したことを知る碑で自決の日は8月20日だった。8月22日には3隻の樺太引揚船が潜水艦に攻撃・撃沈されて1708名が亡くなった。引き揚げ船への乗船は日本人が優先されたので、多数の朝鮮人が故郷に戻れず取り残された。
 余りに多くの15年間の戦争の犠牲に、樺太のことはもはや北海道に居る者にさえも「わずかなこと」として忘れ去られようとしている。
 せめて牧師として樺太に在った教会のことだけでも記録として残したいが、この作業も資料が不足して遅々として進んでいない。8月は、忘れてはいけないことを思い起こさせる月だ。 

 

〈2015年8月2日週報より〉

平和聖日は、1954年10月に開催された第8回教団総会において、東海教区、九州教区などから原水爆の実験と使用禁止に関する3つの建議案が提出され、1962年10月の第12回教団総会において西中国教区の「平和聖日制定に関する建議」が提出されたことにより、採決の結果過半数の賛成によって「毎年8月の第1日曜日を平和聖日とする」ことが可決された。 西中国教区の提案には次のような言葉がある。
 「わたしたちは全国の主にある兄弟姉妹が同時に平和の福音に耳を傾け、世界平和と核兵器禁止のために祈りを捧げることの重要さを思うものである」
 更にこの年12月に開かれた臨時常議員会では「憲法擁護に関する声明」が可決された。いづれも、この世に向けた重要な教団決議であると思う。全国の教団の教会と共に、今日の平和聖日を守りましょう。

〈2015年7月5日週報より〉

 集団的自衛権の行使容認を含む「安保法案」を読んでみた。6月4日、衆院憲法審に於いて自民・民主・維新が推薦する参考人3人全員が「法案は憲法に違反する」との認識を示した。「当然の意見だ」と思った。

 アメリカが世界中でする戦争に自衛隊を参戦させようとするのがこの法案の意図であると思う。第二次世界大戦終結から70年。法案推進者はもう戦争の悲惨を忘れてしまったのだろうか。元陸軍伍長・近藤藤一さん(95歳)は中国と沖縄の最前線で戦った。「300万人が犠牲になってようやく憲法9条を得たのに、なぜまた戦争のできる国にならなければいけないのか」(昨年5月の朝日新聞)戦闘を体験した方の言葉は重い。


〈2015年6月7日週報より〉

わたしは、どうしても聖書の解説をする時に「聖書は人間が書いた」ことを前提にしてしまう。「書かれていることを理解する為にこの箇所が、どのような状況下で、何の必要があって書かれたのか」を探ることが大切だと思うからだ。聖書を読む時には、「ではおまえはどうなのか」とわたしの信仰が問われるのだが。


〈2015年3月1日週報より〉

レント(受難節)随想 2

 時々、「2000年前に死んだパレスチナ人の一人の男とわたしは何の関係があるのだ」と思う時がある。イエスの弟子たちも、そう思いたくなるギリギリのところに居たのではないかと思う。

 ところが、弟子たちはイエスの死を神の業のうちに見出した。「(イエスという男は)神に見捨てられたかのようで、実は神に祝福された人だったのではないか」と思うようになった。

 おそらく自分の十字架を自覚しない限り、イエスとわたしは何の関係もないのだろう。自分自身を見つめる受難節としたいものだと思った。


〈2015年2月22日週報より〉

 レント(受難節)随想

10数年前、鬱(うつ)で苦しんでいたときに受診している医者から「もう大丈夫ですよ」と言われたことがある。「あなたは自分が行き詰っているということを自覚している。だからもう大丈夫です。

「行き詰っているから診てもらいに来ているのではなかったか」と思ったが、だんだんその意味が分かってきた。

レントは克己の時、悔い改めの期間と言われて、皆は、お酒を断ったり、楽しみごとを断っている。

わたしはそんなことをするよりは、自分自身をしっかりと見つめる期間としたい。これは案外難しい。

そして勇気が要ることだ。この期間に聖書もきちんと読みたい。イエスの受難と復活の記事は、わたしに他では味わえない慰めを与えてくれる。

〈2014年12月29日~30日 寿地区〉
夜9時寿公園集合の夜間パトロールに参加させてもらった。
寿地区周辺の班と横浜駅周辺の班の2班に分かれ、横浜駅でまた2班に分かれると一班は4~5人になった。
 わたしは横浜駅周辺の一番長く歩くKM班に「おれ行く!」と応募した。応募の理由は服装を甘く見ていて寒かったから。歩けば暖かくなるだろう。
 スープが入った保温式寸胴鍋を二人で持った。片方の人は数日前に野宿していると「寒くないか?」と声をかけられて毛布をもらった人だった。...
「嬉しかったから・・・おれも参加しようと思って」

 夜10時の横浜駅は、宴会帰りの人たちの雑踏。

皆きれいな服を着て早足で家路についている。寸胴鍋の片方を持って毛布を首に巻いたわたしの姿はその雑踏の中でかなり違和感がある。
「こんな明るい照明の人ごみの中で野宿始めようとは思わないだろう」と私が呟くと
「いや、駅のあそことあそこが朝まで一番暖かいんだよ」
彼は横浜駅の野宿事情にとても詳しい。経験者だからだ。
結局、その夜は「立入禁止」と書かれた公共施設の敷地に寝ておられる方二人にスープと若干の下着をあげ、しばらく世間話をしたのがお会いできた方たちだった。
「毛布要りますか?今日は寒いみたいで」
「いや、僕は十分あるから他の人に回してやってください」
 夜間パトロールが終わって時間を見ると1130分で家には帰れない時刻になっていた。
寿町に戻ってドヤを探し、寝た。
 学生時代に何度か泊まった「ドヤ」と呼ばれていた釜ヶ崎のホテルと比べると圧倒的に快適なホテルだ。3畳間の広さはなんとなく落ち着く。しかし、一人で布団に寝転がっているとなんとも言えぬ寂しさが襲う。世間から取り残されたような気持になる。
 次の日、炊き出しの仕込みが始まる朝9時にずいぶん遅れて寿公園に行ってみると、その日の朝に市原を出発した京葉中部教会の信徒さんたちが居た。
 仕込みを手伝う気も無くぼんやり公園脇の道路に突っ立っていると、「あ、先生、すっかり寿町に馴染んでしまって分からなかったですよ」と笑われた。
 「いや馴染んでないんですよ」
「馴染んでないんですよ」に続く言葉は何だったのだろうか。
「わたしも明日になったらあの駅の雑踏の一人になるんだから」


〈2014年9月21日週報より〉

 比布大雪PA。 日本で最北端にあるパーキングエリアなのだそうだ。自宅から180数km先の士別教会の代務者をしていた時、わたしはよくこのPAのトイレを利用した。

トイレは、毎回とてもキレイに清掃されていた。

 ある時、ドアを開けると二十歳くらいの女の子の姿が見えた。彼女は四つん這いになって一生懸命にトイレの床を拭いていたのだった。「ここのトイレがいつも綺麗な訳が分かったよ。いつもどうもありがとう」と挨拶すると彼女はにこっと笑い「いいえ」と小さな声で応えて姿を消した。

「いいかげんな仕事をしたものだ」と後悔する時にいつも、四つん這いになってトイレの床を拭く彼女の姿を思い出す。 

 

〈2014年3月23日週報より〉

3月、卒業式の季節。公立学校の教師をしている友人たちから心が痛む便りが今年も届く。国歌の斉唱問題だ。国歌・国旗法案審議時に小渕首相が繰り返し「強制はしない」と言っていたはずのものが、今、各地で教育委員会と校長たちによる国歌斉唱の強制が続いている。声を出しているかどうかさえチェックしているそうだ。教育と学問の現場に国家からの自由と独立が保障されなくては、また戦前の過ちを繰り返してしまうのではないか。なにかとても心配な状況である。

 

〈2014年3月16日週報より〉

 今週は、3月末の締切が迫る富坂キリスト教センターの論文書きで終始した。「3年間研究費をもらって一体何をしていたのだろうか」と思うほどのていたらくに嫌になる。

 原稿書きで今、昼なのか夜なのかもはっきりしない一週間を過ごしているうちに曜日の感覚がなくなったのだろう、昨日の夜7時頃になって、靴屋で買い物をしているときに今日は土曜日であることに気が付いた。朝から、「今日は金曜日だ」と思い込んでいた。あわてて家に引き返した。

 日曜日の朝になって気が付くよりは良かった。神様に「まあ、がんばれや。あと12時間の余裕をあげるから」と言われているような気がした。

 

 〈2014年2月16日週報より〉

 30数年間毎週繰り返して来た説教。

 礼拝説教の任務は、聖書の解説だと思っているのだが、聖書に示されている真理は、常にわたしの外に存在して、常にわたしに「分からない」という感情を起こさせる。

 分からないことに取り組んで、毎週日曜日ごとに分かった気持ちになるかというと、そうではなく、 常に「分からない」という感情が残る。これを30数年繰り返している。今朝もそうであった。

 

〈2013年8月25日週報より〉

 昨年冬、「パソコンを買ったけど、パソコンとプリンターを置く机と台が必要だ」

という話になり、3万円ほどの予算で机を探したが、なかなか良いのがない。

結局、自作することに。(材料費2万円ほどでした) 

幼稚園の夏休み中に礼拝室を散らかして、なんとかほぼ完成した。 
 

〈2013年8月18日週報より〉
先週の89日に休みを頂いて長崎に行き、大学時代の先輩に案内されて浦上天主堂に行った。
 
 原爆で破壊された天主堂は今は無く、その場所には新しい天主堂が建てられている。

「長崎には広島の原爆ドームのような遺構が無いね」と言うと、先輩は「この天主堂がそうなるはずだった」と言いながらこう説明してくれた。
 
 原爆で破壊された後も、浦上天主堂の信者たちは天主堂に集まって礼拝を続けていた。

長崎市民の天主堂を残そうという動きもあった。
 ところが、1958年(昭和33年) 218日、 長崎市議会臨時会が元浦上天主堂の

保存決議案を可決したにもかかわらず、天主堂は314日に突然撤去された。

その間、市長(田川務)は、アメリカに呼び出されていたと言うのだ。
 アメリカ政府は「原爆がキリスト教会を破壊した」との批判(アメリカ国内の批判)を

恐れたのだろうか。アメリカ政府は何を怖がったのか。

たった3週間の間にいったい何が起こっていたのだろうか。


〈2013.8.4週報より〉

 福島原発事故があった時、佐藤さん一家は原発近くの双葉郡楢葉町に住んで居られた。

努さんは施設のご老人と一緒に、バスのガソリンの残量を気にしながら、避難所を転々としなければならなかった。

妊婦だった由紀子さんと長女の藍ちゃんは親戚の家に預けなければならなかった。

突然住み慣れた故郷を去る悲しみを一杯抱えた避難だったと思う。

 とうとうこの町に落ち着き先を見つけ、2年半が経った。

その年の初夏に生まれた次女の響ちゃんは、この町が生まれ故郷になった。

 3日、佐藤さん一家は福島県いわき市の仮設住宅に引越しをすることになった。

故郷に少し近づいた。

「ここで様々な人と出会いました。悲しみを福島から持ってきてしまったのに、

喜びを頂いて福島に帰ります」

 努さんはわたしの家にそう書き置きしてくださった。

この2年間何も出来ずに申し訳なかった。

そういう思いで一杯だが、4人ともどうぞお元気で。

 

〈2013.5.19週報より〉

 牧師は、ただ今「教師の友」の特集「共に生きる」の4600字原稿を執筆中。

今週中に提出しなければなりません。(締切はとっくに過ぎております)お祈りください。

 

〈2013.4.14週報より〉

 また教会の庭に咲く満開の桜の写真を撮り忘れた。

毎年「なんて見事な桜なんだ」と思いながら、写真を撮るタイミングを失う。

桜が全部散ってから「撮っておけばよかった」と思う。

これを3回繰り返している。

 教会の庭の写真のことに限らず、わたしの人生は、こういう「手遅れ」の

後悔が多すぎるような気がする。

 「おはよう」とマリアに声をかけたイースターの朝のイエスも、

こんな風に後悔している弟子たちに声をかけたのだろう。

 

〈2013.2.17週報より〉

 今朝は、受難節第一主日です。

受難節は、四旬節・レントとも呼ばれ、イエスの十字架の受難を覚えて

悔い改めの40日間を過ごす期間です。

「悔い改めをする」とは、「反省をする」というよりは、

深く神と自己を見つめるという意味です。

神の方向に向き直ることです。

 

〈2013.1.20週報より〉

 先週は、福島県牧人会施設に除染に行く予定であったが、施設より「今積雪が40センチほどあり、

気温が上がらず、雪が解けない。道路も凍結しているから来ない方が良い。」と連絡があり、

しぶしぶこれを了承。

「道産子の私が積雪40センチで予定を中止するとは情けない」と先週はちょっと機嫌がわるかった。 

 

カーテンや炊飯器カバー製作中です
カーテンや炊飯器カバー製作中です

【信徒より・・・上記のように除染の日程が延期になり、

ぽっかり空いた2日間牧師は休まず 信徒の会「サフラン」

(手作りの会)の為に収納の棚を作って下さっていたのです。

1年位後にでも出来あがるかな? と思っていたのに

お願いしてから2週間で棚が出来上がりました。

 本棚のように見た目にも凝っている棚を礼拝前に見つけ

「残念!ミシンが入らない。棚板直してなんて言えないよな・・」と

思っていたら礼拝後に「棚板の位置はいつでも直しますから」と

おっしゃった。

直ぐお礼と「ミシンが入らないのですが・・・」と申し上げる事が出来ました。 

収納棚にはもったいないような棚には「教会備品」とラベルを

              貼らないと・・・サフランにとっては除染の延期は

              とても有り難い事でした。】感謝(^.^)  

 

〈2013.1月6日週報より〉

 クリスマスツリーはいつから飾り、いつ片づけるのか。

 クリスマスツリーは「キリストと時」の本で有名な O クルマンの「クリスマスの起源」によれば、16世紀のドイツでクリスマス・イブの晩に教会の前で演じられた創世記の「失楽園」の舞台装置であった。イエスに罪許された喜びをツリーで現した意味を大切にすれば、12月25日から飾る方が良いみたいだ。

 イギリス・ドイツ・フィリピンの友達に訊いてみると、やはり「24日の晩に飾る」と教えてくれた。そして、いつ片づけるのか。これも「6日の公現日まで」という答えが多かった。

おそらく博士たちが目指した星をツリーのてっぺんに飾るのが今日なのだろう。

 

♪♫主を待ち望むアドヴェント第3のロウソクともそう
♪♫主を待ち望むアドヴェント第3のロウソクともそう

〈2012.12.16週報より〉

 米国で銃の乱射事件が続き、心が痛む。なぜこんな事件が続くのか。

ベトナムで戦った元海兵隊員の友人アレン・ネルソンが、

「分かるか?日本の国の子どもたちの顔は違う。

戦争をしていない国の子どもたちの顔なんだ」と言ったことを思い出す。

 武器で解決するという手段を持たなかった戦後日本の歴史と

社会は誇りに思うが、今、「アメリカと違って、日本の国はいい」

などとは決して言えない。

戦争をしたい人たちは日本にもいる。

「戦争をしない国の歴史を続けよう。そのために努力しよう」と投票日の前の日に思った

♪♫主を待ち望むアドヴェント最初のロウソクともそう
♪♫主を待ち望むアドヴェント最初のロウソクともそう

〈2012.12.2週報より〉

教会歴によって、今日から待降節(アドベント)が始まります。

アドベントとは「来る」という意味です。

神様からの一方的な救い主のプレゼント。

わたしたちは大切なお客さんが来られるつもりで

準備して待ちたいものです。

わたしたちの闇をしっかり見つめながら、この時期を過ごしましょう。

 

〈2012.11.25週報より〉

 中島みゆきの「世情」という曲をインターネットで聞いてると、突然、知らぬ方から

「1960年代、わたしは『われわれ』と言っていました。しかし、今は『わたし』としか言わなくなってしまいました。」というコメントが入ってきた。

ちょっとショックだった。わたしの礼拝中の説教も、「われわれ」という言葉が少なくなってきたのではないか、だんだんと個人主義的な信仰しか語らない傾向になってきたのかもしれない、と思った。

 わたしと神様の関係には関心があるが、わたしたちが神様に応答して何をするべきか、きちんと考えているのか。

 石丸実牧師が教会の初めに厳しく問うた「隣り人」とは誰か、「共同体」とは何を指すのかの問いを

もう一度思い起こした。

 

サフラン〈雅歌4:14〉
サフラン〈雅歌4:14〉

〈2012.11.18週報より〉

先週水曜日に突然イスラエル軍がパレスチナのガザを空襲し始めた。

軍事力の差がありすぎて、戦争や紛争にはなりえない。

攻撃が一旦始まると、常に犠牲になるのはパレスチナの市民である。

死者は30人を超えている。

土曜日になってガザの様子が次々と配信されてきた。

傷ついた子どもたちを抱えて走る大人たちの写真。

彼らが子どもを抱えて走る先のひとつは、アハリー・アラブ病院だろう。

病院が今どうなっているのか、連絡はない。

せめて病院だけは攻撃目標にしないで欲しいと思った。

〈 2012.10.28週報より〉

先週は、福島原発から20Kmのところにある楢葉町に出かけてその町の浄土真宗宝鏡寺の

住職にお会いしてきた。

事故の前は豊かな水田地帯だっただろう、しかし今はその水田にセイタカアワダチ草が生えて

町にはほどんど誰も居ない。

「復興とか復旧という言葉を聞くと悲しくなります。この地域は崩壊して元に戻ることはありません。」

「わたしは余生を『二度と福島を繰り返さない』ために捧げます。」

住職は長年原発反対に力を尽くしてきた。

事故が起こると「寺の坊主が一番最初に逃げてどうする」と言って寺に留まった。

除染活動が始まると一番最初に汚染土の仮置き場として寺の土地を提供した。

静かな、しかし宗教者としての気概を感じる人だった。

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